色づく山に見る幻想

01

「――まったく、ふざけてるにも程があるわよ」
 翠(みどり)は苛立たしげに、足の先で地面をたんたんと叩いた。
 卒業論文のため、東京から福島まではるばるやってきたのだが、閑散とした田舎の道路を走るバスは一時間に一本しかなかった。
 覚悟はしていたが、実際に体験するのとは話が違う――一本前のバスを目の前で逃していれば尚更だ。
 つまり、翠はあと一時間、バスが来るのを待たなければならないのだ。
 暇潰し用の本二冊は、行きの新幹線とバスの中で読み終えてしまっている。
 付近に時間を潰せそうな施設は、もちろんない。
 都会育ちで、常に様々なものが溢れている環境で育ってきた翠にとっては考えられない状況だ。堪え性がないとも言える。
「これだから、田舎って嫌なのよ」
 文句を言っても仕方がない。それでバスが早く来るわけではないのだ。
 仕方なく、小屋のような古いバス停に入って待つ。中には作り付けの木の椅子と、パイプ椅子が置いてあったが、そこに積もった砂埃を見ると座る気は起こらない。きついが、立って待つしかないだろう。
 もう一冊本を持ってくるべきだったとは思うが、たくさんの資料が詰まったかばんを見ると、それも憚(はばか)られる。
 せめてもの暇潰しにとばかり、周囲に立ち並ぶ木々を見上げる。
 ちょうど十月の半ば、この辺りは紅葉のシーズンで、翠も半分それを狙ってきたのだ。だが、この状況では紅葉も素直に楽しむことができない。
 もう何度目かもわからない溜め息を吐く。紅葉への感嘆よりも、退屈の方が勝っていた。
 確かに、赤や黄、橙に色づく木の葉は綺麗だ。中にはわずかに緑の混じる黄色の葉や、金色と見間違うばかりの美しい葉もある。普段ならば、感動するところなのだろうが。
「暇だなぁ……」
 ぽつりと呟く。目を閉じて、再び溜め息を吐く。
 さすがに退屈な気持ちに変わりはない。
「では、その暇を潰してやろう」
 声がした。
「え?」
 急いで目を開けて、周囲を見回す。誰もいない。当たり前だ。
「気、のせい、よね? 多分……」
 バス停の外の景色へと、視線を移す。
相変わらず、晴れ上がった青い空に、色づいた葉がよく映えている。
 さっきと何ら、変わらない景色。その、はずなのに。
 正面にある紅葉の葉がさっきよりも赤い気がする。さっきは、オレンジに近い自然の赤だったものが、パステルカラーで塗ったかのような人工的な赤になっている。アニメで使う色のように、濃く、紅い。
 よく見ると、他の木々もそうだ。先程よりも色の濃度を増し、それがさも当たり前であるかのように、吹いてくる生ぬるい風に揺れている。
 背筋を冷たいものが走った。
 怖い。怖い怖い怖い。
 何かが、異様だ。
 さっきと同じ場所なのに、異質な感覚は消えない。むしろ、増している。
 風は吹いているのに、どこか閉鎖的な感じがする。室内でもあるまいに。
「何……なのよっ!」
 恐怖が口をついて出た。虚勢を張るつもりで口から出た声は、思いの外、か細かった。
 足元で枯葉がかさかさと音を立てる。茶色い葉が風の渦の中にあるかのように、くるくると円を描いて回った。それすらも、どこか異質な気がする。
 上空で風がびゅう、と音を立てて唸る。すぐに、渦巻いていた風が大きな空気の塊となって、落ちてくる。
 頭上から叩きつけられた風で、地面に散らばる落ち葉がぱっと舞い上がり、翠へと吹きつける。
 視界には、こちらへ向かって吹いてくる落ち葉しか見えなかった。


今日は珍しい人間を見た。
この辺りではついぞ見かけない、珍しい毛色の人間。若者というのも珍しい。
 どうやら、このような鄙(ひな)びた地は嫌いらしい。人間の作った小屋の中で暇だとぼやく女の言葉に、口角が上がった。
 では、遊んでやろう。


 目を開けると、そこは異質な世界だった。
「どこ、ここ……」
 翠は呆然と呟いた。
 色が、ない。見渡す限り、世界はおしなべて白と黒と灰色だった。
 ここはどこなのだろう。
 いくら見回してみても、そこは翠がいたバス停ではなかった。
 黒い影を落とす灰色の木々と白い湖、遠くに見える灰色の山々しかない。
 もちろん、翠のいたところは湖を臨めるような場所ではないし、そもそも山奥にいたはずなのだ。大きな池や湖があるはずもない場所に。
 なのに、翠は今、広々とした湖の畔に立っている。
 そして世界には色がない。昔の映画の中でもあるまいし、こんなおかしなことは初めてだった。
 翠の体を、言い知れぬ恐怖が支配した。
 寒いわけでもないのに、体が震える。
 己を抱き締めるように体を暖めてみて初めて気づいたが、翠は肩から下げていたはずのかばんをどこかになくしてしまっていた。頭の隅でどこにいったのだろう、とは思うが、それ以上に己の保身が大切だった。未体験の感覚は、恐怖でしかない。
 それぞれ二の腕を掴んでいる両方の手にぐっと力を込める。
「ああ、来たか」
 うなじから首の左側に向かって、するりと冷たい手が背後から当てられた。
 その冷たさもさることながら、その異様な声にぞくりとした。
 ここには自分以外、誰もいなかったはず、なのに。
 後ろを振り向くのが怖い。それでも、そこに何がいるのか知りたい、という欲望には勝てない。
 首をゆっくり、ぎこちなく動かして後ろを向いた。
「ようこそ、山中異界へ」
 異質な存在が、そこにはいた。


 今日は久しぶりに生きている人間をこちらに引き込んだ。
 若い女はこちらの風景に恐怖を感じるらしく、かたかたと小刻みに震えている。
 面白そうだ。実に、面白そうだ。
 客人など、何年ぶりか。たっぷりもてなしてやらねばならない。


 山中異界とは、山の中からこの世のものとは思えぬほど美しい国や村へたどり着く昔話に起因する呼び方だ。
 僧や村人が旅や狩りなどの途中で道に迷い、不思議な場所へと着いてしまう。その不思議な場所のことを、この世ではない別の世界を現す言葉で“異界”と呼ぶ。山中から異界へ行くことができるため、山中異界と呼ぶのである。
 しかし、翠はこの場所が“そう”であるなどと、考えたくなかった。
 だってそんなもの、現実に存在するわけがない。
 山中異界なんて、昔話の中にあるだけの存在だ。そのはず、なのだ。
 だから翠は、目の前の人物の言葉を頭の中で否定することにした。
 いや、そもそも目の前にいるこの人物を人と呼んでよいものか。
 中性的な人物だった。男なのか女なのかすらわからない。
 灰色の髪に黒い目。外見は若かったが、翠よりは年上に見える。それでも身に纏う雰囲気は常人のものではなかった。
 着ている衣装も、郷土資料館でしか見たことがないほど古くさい。昔ながらの草木染めで染めたらしい、淡い渋緑の着物と生(き)成(な)りの細い袴の上から、長い毛皮の上着を麻の紐で縛っている。
「だ、誰……?」
 ようやく声を出すことができた。自分でも驚いたことに、その声は震えていた。
「誰、か。ふむ……お前たちの言葉で言えば、山の神、ということになるのであろうな」
 相手――山神――は少しばかり首を傾げた。
 どう見ても翠と同年代、あるいは少し上に見えるが、その中身はずいぶんと年齢差がある気がした。
 それにしても、山の神だと。ふざけてるにも程がある。
 だが、今の翠にとっては、何にせよ同じだった。
 人ではない、おかしな“何か”が自分の目の前にいる。それに恐怖を感じている。それだけだ。
「何で、私のところに」
「なに、ただの暇潰しさ」
「それだけ……で?」
 翠は驚くよりは呆れた。たったそれだけで、人をこんな訳のわからない場所に引き込んでしまうなんて、どういう思考回路をしているのだろう。
 昔話にある不思議な現象――怪異とも言う――については、翠もよく知っている。卒業論文で取り扱っているテーマがその中の一つだからだ。
 山中異界のような異界譚もその一つだ。中国の『桃花源記(とうかげんのき)』――いわゆる桃源郷(とうげんきょう)――の話がそれだ。
 もちろん、同様の話は日本にもいくつか存在する。
 しかし、それは総じて、洞窟などを通った後に現れるものだったはずだ。こんな風に、急に何者かに引き込まれることはなかったはず。
「そう、それだけで、だ。お前にとってはとんだ災難かもしれないが、こちらにとっては久方ぶりの楽しみというものだ――」
 山神はにたりと笑った。意図など何もない、ただ目の前にあるものを弄って遊ぼうとする、子供の顔だった。
「た、楽しみ?」
 翠は後じさった。山神を名乗る相手が一体誰なのか、それを知りたい気持ちがあるが、やはり体を支配しているのは恐怖だ。
 訳のわからない場所で、得体の知れないものと向き合っている。
 翠にとってはそれだけで、十分に恐怖の対象になる。
「わ、私をどうする気?」
体を縮ませながら問う。山神はきょとん、としてさも当然そうに言った。
「お前で、暇潰しをする」
「ひ、暇潰し……?」
「そう、長く生きていると暇になる。だからこうして、時々暇そうな人間を招いて暇潰しをする」
「暇そうな……って、私のこと!?」
「他に誰がいる。大体、お前も暇だと言ったろう」
 確かに言った。しかし、それは独り言であって、山神に言ったのではない。
「それは……っ」
「まあ、何でもいい。とにかく、せっかく来たのだ、堪能していくといい」
 山神の姿が忽然と消えた。
 それを皮切りに、翠の視界にモノクロの景色が入ってきた。極力、見ないようにしてきた世界。
 仕方なしに、翠はのろのろと歩き出した。
 舗装されていない道は歩きにくく、また、どこに繋がっているかもわからない。
 いやいやながら進む。しかし、それしかできない気がした。
 そうして歩き続け、やがて翠は開けた緑の草原に出た。
 ようやく色のついた場所に出てほっと安心したのも束の間、翠は草原に乗せた足元の奇妙さに首を傾げた。
 踏んだ感触が違う。土のように柔らかいわけではない、けれど枯れ枝が積み重なって折れるような乾いた音がした。奇妙に思った翠は、自分の足元を覗き込み――次の瞬間、悲鳴を上げてその場に座り込んでしまった。
 翠の足元で乾いた音を立てたもの――それは、カラカラに乾いて脆くなった白骨の山だった。背の低い草だと思っていたものは、白骨の上に蔓延る緑の苔だ。
 翠は逃げようと立ち上がった。そして走り出そうとした時、視界に広がるモノクロの光景を見て、翠は気付いて動きを止めてしまった。
 ここは自分が知らない場所。山神言うところの山中異界。
 自分の知っている世界では、ない。
 知らない世界、知らない景色、モノクロの視界。
 冷や汗が背中を伝った。逃げられないことに対してではない。背中に貼り付くように居る存在に対してだ。
「どこへ逃げればいいかもわからないだろう?」
 顔は見えないが、声には嘲りの色が含まれていた。
 体は触れていないはずなのに、ぺったりと背中に貼り付くように、山神は翠のすぐ側にいた。
 それを頭で理解した途端、背中にぶわっと汗が吹き出した。
「ここでは、お前は異邦人なのだから」
 するり、と左の首筋を撫でられる。
 まるでそこから体が凍るかのような心地がした。山神の手はとても冷たかったのだ。
 体の熱を全て取り去るかのような、冷たい吐息がうなじに当たる。途端に、冷たさが身体中を駆け巡っていった。
 ――逃げられない、と思った。
 この相手に捕まったからには、この場所から逃げられない。山神はもともと、翠を帰す気などないのだ。
 それがわかってしまった。
 くすくす、と山神が背後から小さく笑う声が聞こえる。
 それは耳から入って、こだまのように頭の中に響き渡り、ついには翠の思考すら奪った。
 そして。


 ぱあっ、と視界に赤と黄が散らばる。
 色づいた落ち葉が風に巻き上げられ、吹きつけてきたのだ、とわかったのはしばらく経ってからだった。
「…………え?」
 翠は元のバス停に立っていた。
 青い空、白い雲、緑から赤まで様々な色の葉で己を飾る木々。
 秋の冷たい風にバス停の中に吹き込んだ落ち葉がかさかさと音を立て、肩には資料の詰まった重いかばんの取っ手が食い込む。
 普通、だった。
 翠のよく知る世界、そのものだった。
 今のは一体、何だったのだろう。
 何故自分は、あの世界に引き込まれたのだろう――?
 考えを巡らせてみても、わからないものはわからない。
腕を組んだまま立ち尽くしていると、道路の向こうからぷぁん、と車のクラクションの音がした。バスだ。
「――あれ?」
 翠は時計を見た。思ったよりも早く時間が過ぎている。まだ十分程度しか経っていないと思っていたのに、一時間近く経っている。
 ――暇を、潰してやろう。
 いっそ傲慢とも取れる声が、脳裏に蘇る。
「……確かに暇は潰れたわ」
 ぼそりと呟き、翠は静かにバスのタラップを上がった。
 最後にちらりと、鮮やかな紅い葉を振り返って。


 あれから毎年、同じ時期になると同じ場所へと出かけている。
 いつもと同じ様に、色づいた葉が翠を出迎える。まるで、あの時引き込まれた紅葉のような、鮮やかな紅を筆頭にして。
 ――けれど、翠があの山神と会うことはなかった。
 山神に触れられた、翠の左の首筋が元のように温かくなることがなかったように。
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