桜*葬送曲

01

「桜前線に乗っていきたい」
 彼女が急にそんなことを言い出すものだから、僕は出されたお茶をうっかりこぼしそうになった。
「なんだよ、急に」
「え、いやあ、なんとなく」
 彼女とはもうずいぶんと長い付き合いになるが、彼女のことを完全に理解することは未だにできていない。というか、不可能だ。それはもうずいぶんと昔から知っていたのだけれど。
「だって桜前線に乗ったら、沖縄から北海道まで日本全国どこにでも行けるじゃない? 日本人って桜好きだから桜の無い町なんてないだろうし」
 それに桜前線に乗っていったら、桜の花や葉を使ったお菓子もあちこちにあるだろうし。そんなことを言いながら、昨日友達にもらったという道明寺桜餅を自分では食べずに僕に出している。スーパーやそこらの和菓子屋で売っているありきたりなものには食指が進まないと言うのだ。なんともわがままなことに。
 それでも僕は何も言わない。
 彼女が本当に食べたいのは期間限定や地域限定で売り出されたりする希少価値の高いやつで、そこに出かけていって食べたいのだということを知っているからだ。
 けれど、病気の身である彼女には自分の好きなように甘いものや塩分のあるものを食べることができない。だから、お見舞いの品は必然的に僕か彼女の家族に回されてくる。僕の目の前にある道明寺桜餅は確実に彼女の食欲を刺激しないからだろうが。
「やっぱり桜は一重(ひとえ)が一番よ。シンプルイズベストってやつ。八重(やえ)みたいにもったり、重そうにしてるのってなんか別の花みたいな感じがするし」
 話の流れはいつの間にか、桜を使った食べ物のことから桜の花自体のことに変わっていた。
「でも小学校に植えられてるのって大抵八重なのよね。長く咲いてて楽しめるからって理由らしいけど」
 昔から桜が好きな彼女に付き合わされて、桜がある、近隣のありとあらゆる場所を見て回ったことを思い出す。




 小学校、中学校といった学校はもとより、公園、個人宅の庭、野原に河川敷。公共の場からちょっとどうかと思う個人の私的空間まで、彼女は桜の木のあるところをよく知っていた。
 遊びたい盛りの子供だった僕は、彼女に付き合いながらも、それを不服としていた覚えがある。わざわざ桜を見に行くなんて、女々しいと思っていたからだ。大人たちが毎年桜の木の下で宴会をすることは知っていたが、子供としては花より団子、桜より遊びだ。風流を楽しむことなど思いつきもしない。
 僕はいつでも会えるほど近くに住んでいる彼女に付き合わされて桜を見に行くよりも、友達と遊びたかった。結局、なんだかんだ言いつつも付き合った。そうしなければ、彼女は勝手に一人で出かけて、夕方になっても帰ってこない彼女を僕が探すことになるからだ。付き合うよりも付き合わないほうが疲れるというのはどこかおかしい。
 それでも桜が好きだという彼女の気持ちに根負けしたのは本当だ。でなければ、今まで何年も彼女の我儘に付き合えなかっただろう。




 今でも僕の脳内にはその場所を示す地図があって、この時期は毎日桜の木のある場所を回っている。自分が桜を楽しむためではなく、どこかで桜が咲いたら真っ先に彼女に報告して自慢してやろうと思っているからだ。
「桜の花が咲いた木の上で寝てみたいわー」
 ここまでくればもうわかっているだろうが、彼女は桜が大好きなのだ。桜症候群と言ってもいい。
 幼い頃に自分の名前――ちなみに彼女の名前は霞(かすみ)という――がなんだかぼんやりしたものみたいで嫌だと喚(わめ)いていたくせに、その由来が桜の種類の一つだと知ると、一転して名前が大好きになったという現金な人間だ。春が近づけば、時期に応じて売り出される桜のお香や入浴剤に飛びつき、スーパーのお菓子売り場では桜を使ったお菓子がないか目を光らせる。先ほど症候群と言ったとおり、一種の病気だ。体には何の害も無いにしろ。
「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」
「もう? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「あんまり長居して君の具合を悪くしても気分が悪いからね」
 別れの挨拶もそこそこに椅子から立ち上がる。ここで長居をしないのは、僕がいる間に彼女が無理をしてはいないかという心配があるからだ。
 彼女は昔から、自分がどんなに苦しい思いをしても、他人には強がってみせる。いかな幼馴染とはいえ、簡単に甘えてくるような彼女ではない。だから僕はせめて彼女が強がらなくてもいい時間を作る。
 それが、僕が彼女にできる、せめてもの気遣いだった。




「ここもまだ、か」
 足を止めて、呟く。
 見上げた桜の木には、ピンク色の花なんて一つもついていない。どの枝の先も、まだしばらくは咲きそうにない小さな蕾をつけているだけ。
 今年は冬の寒さが長引いた影響で、どこに行っても桜は咲いていなかった。少し足を伸ばして、早咲きの桜の木を見に来たが、この木も他の桜の木と同じだった。
 人間がまだコートを手放せないほどの気温なのだ、仕方ないのかもしれない。
 それでも日は確実に過ぎていく。




「今年は桜の開花が遅いのね」
「まだ寒いから。暖かくならないと桜は咲かないよ」
 視線がつい、窓の外の桜の木に行く。
 大きいとも小さいとも言えない細い木は、その枝の先に小さな蕾をつけてはいるものの、まだその口を固く閉じたままだった。
「秋には咲いたくせに」
 彼女の家の桜は去年、秋の寒暖の差が激しく変化する中で、ある日突然花を咲かせた。
 どうやら寒くなった後、急に温かくなったために、桜が冬から春になったという勘違いをしてしまったらしい。それ自体は日本のあちこちであったようで、テレビでも取り上げられていた。
 しかし、いざ春になってみると、桜はなかなか花を咲かせない。
 僕が毎日歩いて回っている先にも花をつけた桜の木は一本もない。暦の上では確かに春なのに、実際にはまだ冬が長々と居座っていた。
「桜っていつ、どう見ても綺麗よね。私、桜が国花の日本に生まれて幸せだなあ」
 先ほどまで桜に対して不満を口にしていたというのに、今度はまた桜に対しての賛辞を贈っている。もう彼女の桜好きには誰も何も入り込めない。
どうしてそこまで桜が好きになったのか、聞いたことがあったが、彼女の答えは単純かつ明快だった。
『だって好きなものは好きなんだもの。そこに理由なんかないわ。理由がないんだから、しょうがないじゃない?』
 納得できないかもしれない、それでもわかる人だけにわかる、簡単な答えだった。
 わかる。
 わかるよ。
 僕にはわかる。
「そうだね」
 君が桜を好きなように、僕も君を好きになったから。




「あ、吉備(きび)さん。これはどうも」
「こんばんは。この度はご愁傷様(しゅうしょうさま)でした」
 僕は、彼女とはあまり似ていない中年の女性に向かって頭を下げた。
 春だというのに、着ている喪服が暑いくらいの夜だった。
「入院中も度々母の様子を見に来てくれて……本当に、ありがとうございます」
「いいえ、霞さんとは昔ながらの間柄ですから。家もすぐ近くでしたし」
 苦笑する女性の目元がわずかに赤くなっていたが、見ないふりをしてそのまま世間話を続ける。
「母はあの性格でしたから、入院中も吉備さんになにかご迷惑をおかけしたんじゃないかと思っていたんですよ」
「ご心配なくとも、彼女の性格には慣れていましたよ。子供の時から知っていましたからね。相変わらず春になると桜の話しかしなかった」
 くすくすと笑う女性を視界に映しながらも、僕の目はまったく違う場所を見ていた。
 女性の肩のむこう、設(しつら)えられた祭壇の前には僕のよく知る彼女が真っ白な顔をして棺桶の中に横たわっていた。その死装束を見なければ、彼女が死んだなんて到底思えない。昨日、急いで病院に駆けつけたときと同じように、眠っているとしか思えなかった。
「一昨年に父が亡くなってから、母の楽しみは毎年吉備さんと桜の話をすることだけでしたから」
 僕は言葉に詰まった。
 本当に、そう思ってくれていたのだろうか。
 彼女は、遠かった。
 幼馴染という、一番近い関係のはずなのに、いつもどこか遠かった。
 それは、成長するにつれて彼女との間にいつの間にか引かれていた境界線のせいかもしれなかったし、自分の気持ちに素直になれなかった若い時の自分のせいかもしれなかった。
 わからなかった。
 ただ、わかっていたのは、彼女がもういないということだった。
 何か言わなければいけないのに、僕の口からは何も出てこず、代わりに目尻から何か熱いものが零(こぼ)れていった。




『桜前線に乗っていきたい』
 そう言った彼女は、入院していた部屋のすぐ傍に植えられた桜が散り始める頃に逝ってしまった。まるで本当に桜前線に乗って行ってしまったかのように。
 僕は今年も歩いている。彼女によって作られた脳内の桜地図に決められた道を。
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