人間進化論

01

 人間とは何か。
 表現方法ならいくらでもある。
 生態系の頂点。
 地球を支配している生き物。
 サルから進化した霊長類(れいちょうるい)ヒト科。
 知恵があって、すぐに争いを起こすバカな生物。
 そんなバカ生物に属する俺。
 姓は田中、名は定信(さだのぶ)。日本人、オス、十七歳。
 只今屋上でサボりの真っ最中。




「ふあ〜……本当に退屈だなあ」
 誰もいないのをいいことに、大あくび。
 クラスの奴らがここにいたら、きっとものすごく驚くんだろう。
 成績優秀、品行方正で通っている優等生の田中定信が屋上でサボり。その上、そこで寝ようとしている、なんて。
 今だって保健室に行ってくる、なんてありがちな嘘をついて出てきたのだ。学校じゃ、誰も俺の本当の性格なんて知らないんだろう。
 中学時代のいじめが原因で張り始めた他人との境界線(ボーダーライン)は、学年が上がっても消えることなく、そのまま活用されている。
 どうせあと一年半もしたら卒業だし、大学も東京の方へ行く気でいるから、高校の連中との関わりはごく少ないものになっている。
 高校生生活なんて特に意味はない。
 ただ食って寝て勉強して、時々サボって。
それを繰り返せばいつの間にやら高校生活は終わって、大学生になって、社会人になっているんだろう。
 中身も何もない、薄っぺらな日常。
 そうして人生は終わっていくんだろう。
 ――そう思っていた、のだが。
「何をしている? 少年」
 何の変哲もない俺の日常にそいつは現れた。
 どう考えてもバランスがうまく取れなさそうな給水塔の上に立って、俺を見下ろしている人影。
 一見すると、普通の高校生に見えた。
 どこかの私立のような制服に、黒いゴムでポニーテールにされた髪。
 外見も、どこにでもいそうな女子高生のものだ。
「勿体ない……人間の時間なんてあっという間に過ぎていくというのに」
 だが、その身体から放たれるオーラは、高校生どころか、普通の人間のものですらなかった。
 何より、彼女の放った“人間”という単語が、彼女自身が人外の者であるという疑い深い事実を物語っていた。
「だ……誰だよ、あんた」
 給水塔の上に立つ人物のオーラと、その言葉の内容に気圧されて、口からうまく言葉が出てこない。
 怖かった。
 口では神や悪魔もいるんじゃないかと言ってはいるが、実際にそれに近いものが現れたと思うと、腰が引けた。
「まあ誰でもいいだろう」
 そいつはあっけらかん、と答えた。実際、それについてはどうでもよさそうな物の言い方だった。
「それよりも少年、ここで何をしている? 今は授業中だろう?」
「さ、サボりだよ。何か悪い?」
 痛いところを指摘されてぎくりとした。俺がサボっている最中に最も嫌がること、それは人に会うことだ。
 会えば必ず、何故ここにいるのか、そして何故授業に出ないのかを聞かれるからだ。
 優等生の皮を被って生活している俺にとって、最も遭遇したくないケースだ。何故って、優等生の肩書きに傷がつくから。
 本当の自分ではない自分の皮を被って生活していくならば、なるべく完璧でいたいのだ。
 それが似非(えせ)完璧主義者ってもんだろう。
 実生活では冴えないのに、ゲームのレベルはMAX、アイテムやモンスターのデータはコンプリート済み。っていうやつ。
 俺もそうだけど、世の中にはこの似非完璧主義者が多いと思う。だって、本当の完璧主義者なら現実世界でも自分で色々できるように努力するはずだ。
 つまるところ、人間ってのはろくに努力できない生き物なんだろう。
「よくない、よくない! こんなの、今だけなんだぞ? 大人になったらあの時もっと授業出ておけばよかった――とか思うに決まってる」
 鎖骨の下がちくりとした。
「俺は……早く大人になりたい。そうしたら、こんなものから逃れられるのに……」
 そう言うと、相手は片眉を跳ね上げた。
「それは、学校からか? 友人からか? 親からか? 自分からか?」
 矢継ぎ早に問われた質問に、どれも違う、と答えたかった。
 しかし俺の口はどうしたことか、開いてはくれなかった。
 俺をじっと見つめてくるそいつの目を見て、口にすることはできなかった。
「……まあ、どれにしろ逃げたいわけだ、お前は」
「はっ!?」
 驚いた。だって別に、俺は何かから逃げているとは思わなかったからだ。
 たまには息抜きしたい――そんな気持ちだった。
 だが、目の前の人物はそれを逃げだと言う。
「逃げてなんか――」
「逃げてなかったら、今ここにはいないだろう」
 言葉の途中で冷たく返され、今度こそ俺は黙った。
 何で俺は今、この得体の知れない人物に説教されているんだろう。人間の坊さんが妖怪に説教する話なら読んだことがあるが、逆は読むどころか、聞いたことすらない。
 しかも、逃げてる、とか言われるなんて。
 俯いた顔を上げられない。鼻がつんと痛くなった。
「――さて、行くぞ」
「あ?」
 唐突にそんなことを言われたので、俺は拍子抜けした。
「行く? どこに?」
「とりあえず、どこかだ。ここにいたらうるさいのに見つかってしまうからな」
 そいつは給水塔の上から軽々と下りてきた。給水塔の高さはゆうに一メートルは超えているというのに、躊躇いもせず。
 次いで、上半身を起こした俺の腕を引っつかんで、そのままフェンスの向こうに飛び出した!
「――ぅわぁあああ!!」
 落下している、と頭で認識すると同時に、ざっと血の気が引いた。
 屋上から落ちるのは、五回の窓から落ちるということとほぼ同じだ。
 二階、三階ならまだ助かることもあるが、四階以降はほぼ死ぬ。そんなことを頭の中でぐるぐると思い出していたが、いつまでたっても地面につかない。
「あ、あれ?」
「何をやってるんだ?」
 呆れ声に、きつく瞑っていた目を開ける。
 俺は、落下などしていなかった。
 不思議なことに、俺たちの身体は屋上よりも高い位置に浮いていたのだ。
 腕をつかまれたままだから、俺の身体は宙ぶらりん状態で、怖いことに変わりはなかったが。
「あ、あんた……何者なんだよ?」
 裏返った、細く小さい声しか出なかったが、そいつにはちゃんと聞こえたらしい。
「この国で人間が呼ぶ私の名前は造物大女王(ぞうぶつだいじょおう)」
 そう言って笑ったそいつの足元は宙に浮いているというのに、地面に足がついているかのようにしっかりとしていた。風でぶらぶらと揺れている俺とは大違いだ。
「この世界では魔王や神の類(たぐい)として認識されている」
「な――うわぁっ!!」
 景色が動く。
 移動している。
 飛んでいる、のだ。俺は今。
 びゅんびゅんと耳元で唸る風や雲の中を突っ切っている。映画でも見ているのか、と思うほどの非現実的光景だ。ただし、吹きつける風やひんやりとした空気に、これは間違いなく現実なのだと思い知らされる。
 おまけに、俺をつかんでいる人物は神だか魔王だか――どちらなのかはっきりしてほしい――らしい。
「っていうか、神と魔王って、真逆のものだろ! 何だよそれ!!」
 まだちょっと震える声で反論してみる。空中に浮いているから、吹く風で身体がゆらゆら揺れるし、目の前にいる“何か”がもし魔王だったらと思うと余計に怖かった。
「人間はすぐに自分とは違うものを良いもの、悪いものに分けたがるが」
 視界の端でちょっと首を傾げるのがなんとなく見て取れた。
「それらが実は同じようなものだとは気付かないのだな」
「な、に、言って――うわぁぁっ!!」
 がくんと上下に揺れた。
 どうやらわざとらしく、頭上でからからと笑う相手――造物大女王という名らしい――に軽く腹が立った。
 しかし、これだけ風が耳元で唸っているにも関わらず、彼女の声はちゃんと聞こえている。
 不思議だと思う一方で、彼女の、造物大女王という名に首を捻(ひね)る。
 日本で女王という称号を使うことはまずない。
 日本ではせいぜい卑弥呼(ひみこ)と、皇族を親戚とする女性だけだ。
 あとはイギリスを代表とする外国の女王たちだが、これは確実に違うだろう。
「普通の人間が実生活で聞くことはまずない名のはずだ」
 俺の考えを読んだかのように、女王がクスリと笑う。
「その名は一応、魔物の一人として認識されている。神学(かみがく)上でだがな」
「神学(かみがく)?」
「おや、そういう言い方ではなかったかな。この国が元々持っていた神の世界のことだ」
「ああ、神道(しんとう)か」
 何のことかと思ったが、神道なら知らなくて当然だ。神道を中心に信仰しているわけではないし、神話にしても一部しか知らない。正月に神社に参拝しに行くが、俺にとってはその程度のものだ。
「神道ってことは……やっぱりお前は神なのか?」
 あれ、でもさっき自分で魔物って言ってたような。
「言ったろう、神も魔物も元は同じものなのだ。力を持つものが良いことをすると、神や仏と認識される。逆に、悪いことをすると魔物や妖怪として認識されるのだ。根本的に違いはない」
 良いことをするから神。悪いことをするから魔物。
 女王は神道で魔物として認識されていると言った。
「……じゃあ、あんたは悪いことをしたのか?」
 つまりは、そういうことなのだろう。
「それはよくわからんな」
 女王は曖昧(あいまい)に、けれどきっぱりと答えた。
「私たちにとって良いことが人間たちにも良いこととは限らない」
 その目はまっすぐに何も見えない空の向こうを見据えていて、俺は女王が、魔物と認識されることになった行動を後悔していないことがわかった。




 女王が降りたのは、マンションの屋上だった。
 他のマンションよりは少し高い程度だが、それでも十五階ほどはある。学校の屋上とは比べ物にならない高さだ。吹きつける風に足が震えた。
「よし、行くぞ」
 勢いよく屋内へのドアを開けながら女王が言い放つ。
「行くって、どこに?」
「町だ町。まず人ごみに紛れて身を隠さなければ。早く行くぞ」
「俺も?!」
「当たり前だろう。それにお前、ここにいてどうする気だ。一階に降りなければ家にも帰れないぞ」
 言葉に詰まる。確かにそうだった。
 それでも、何で俺が女王のお供(とも)をしなければならないのかは理解できない。
 複雑な気持ちで屋内と屋上の境目にある段差を跨(また)いだら、女王が力任せに引きちぎったらしい南京錠(なんきんじょう)が白い上履きの下で音を立てた。




 出た商店街は午後の気だるい雰囲気に包まれていた。
 無理もない。昼も過ぎて、満腹になった身体が睡眠を欲しがる時間帯だ。八百屋の中年のおばさんが店先に座りながらうとうとしている。
他の店も、店に店員の姿が見えなかったり客と世間話に花を咲かせていたりと、状況は似たり寄ったりだ。
 そんな中を、高校生の格好をした俺と女王がそぞろ歩く。
 その脇を時折無関心で、あるいは怪訝そうな表情でおばさんやじいさんばあさんが通り過ぎていく。学生が真っ昼間にこんなところにいるのを不審がっているのだろう。中身はともかく、女王の見かけは高校生だし、普通の女子高生に見える。俺に至っては上履きのままだ。かっこ悪いし、通りすがりの人たちが俺たちを変な目で見るのも頷(うなず)ける。実際、気恥ずかしさが身体の半分ほどを占めている。
 そんな俺の気などお構い無しで、女王は商店街のあちこちを指差しては、あれは何だこれは何だと聞いてくる。人間というものがよっぽど面白いらしい。それは人の行動から道具に至るまで、広範囲に及んだ。
「なあ、あれは何だ?」
 いい加減、面倒になってきた。それでも気になるので視線を向けてみると、女王の指は本屋のガラス戸に張られたポスターを指していた。
「何って、ポスター。広告」
 端的に説明すると、女王は違う違うと首を振った。
「何であのポスターだけあんなにいっぱい貼ってあるんだ」
 そこでああ、と理解する。
 店内が見えるように足元までガラス張りのそこには、同じポスターが何枚も何枚も内側から貼られていた。
 今話題の、新人作家の本だ。
 胸がぎゅっと痛くなる。
 それを誤魔化(ごまか)すように、俺は急いで口を開いた。
「今注目されている本だからだ。本屋は本を売って儲けたいから、うちではこの本を売ってるってことをアピールしたいんだろ」
「ふうん……何で注目されてるんだ?」
 締め付けられた胸をきりきりと絞られているような、感覚。
「……俺と同い年のやつが、この作品で芥川賞取ったんだ。歴代最年少だそうだ」
「芥川賞?」
 女王が首を傾げる。
 痛い痛い。胸が痛い。
 痛いなら口を閉じればいいのに、俺の口はそんな冷静な判断とは真逆の行動をする。
「芥川龍之介賞。芥川龍之介っていう作家の業績を記念してできた章で、純文学の新人に与えられる文学賞だ。原稿用紙百枚から二百枚程度の短・中編作品が対象で、年二回選考する。作家にとっては名誉ある賞の一つだ。似た賞でも直木三十五賞の方が有名だと思うけど」
 止めようと思うのに、そう思うほど俺の口はよく回る。
 本当はこんなこと、口にもしたくないのに。
「随分とよく知っているな。お前も書いていたのか?」
 心臓が止まった、気がした。
 図星だ。
 俺も、あの話題の中心にいる作家のように小説を書いている。いや、書いていたと言う方が正しい。
 作家を目指すのは止めたのだ。
「何でだ? 向上心のない生物は進化できないぞ」
「やっぱり。俺の思考を読んでるだろ。やめてくれよな」
 恨めしげに女王を睨むが、女王は慌てる素振りを見せることもなく、何故だと理由を問い詰めてくる。
「……無駄だと、思ったからだよ。作家なんて非現実的だ。なれるかどうかもわからないし、なったところで売れなきゃ食っていけない。普通の受験なんかよりもずっと倍率高いし、小説を書くのも面倒だ」
 言い訳だった。
 女王の真っ直ぐな視線を受け止めきれず、俺はやや俯きがちに視線を逸らした。
 女王の目を見ていると、言い訳すら口にできない気がした。
 その目は嘘や誤魔化しを許さない、上に立つ者の目だった。
「嘘だな」
 きっぱりと断言される。
 予想はしていたが、やはり思考を読まれていたらしい。
「だから俺の考えは読むなって――」
「読んでなんかいない。止めろと言われたからな」
 絶句する。思わず顔を上げてしまった。
 目を見開いて、女王の真っ直ぐな視線を受ける。何も言えなくなった。
 またもや言い訳をしようとする口が開いては閉じ、結局は何一つ言葉にできない。屋上にいたときと同じだ。
「お前の様子を見ればわかる。口では諦めたと言ってはいても、お前はその夢を捨てきれていない。ただ倍率が高く、厳しい作家の世界を正面から受け止めることができないでいるだけだ。そして、諦めたふりをする。色々な言い訳で真実を凝(こ)り固めて、逃げる。なのに、自分と同じ立場にいる才能ある者を妬(ねた)む。羨(うらや)ましがる。疎(うと)む。羨ましいなら、自分も努力すればいいだけなのに」
「ちが――」
 違うと言いたかった。
 でも俺の口はそれ以上動かない。違わなかったからだ。
 怒りと屈辱と絶望で口元がひくひくと震えた。頭に血が上っていて、何か言いたいのに、うまく言葉が出てこない。
違う、違わない、と頭の中で言葉がぐるぐる回っていた。
「――別に、妬んだり恨(うら)んだりすることがいけないわけじゃない」
ようやく上げられた視界の中で、女王の瞳は幾分か柔らかくなっていた。
「人間は様々な感情を持つ。微笑ましいものもあれば、眉をひそめるものもある。それが当たり前なのだ。どんな聖人君子も必ず他人を疎(うと)ましく思う心がある。それがないやつは人間とは言えん」
 女王は腰に手を当て、胸を張った。そして不敵な微笑を浮かべながら、尊大(そんだい)に言い放つ。
「私は人間が好きなのだ」
 思わず、目を瞬(しばた)かせてしまった。
「努力をして無駄にあがいて見せるところも、生き方次第で良くも悪くもなれる部分も、ひどく好ましい」
 魔物が、しかも大女王という称号を持つ魔物が。
 人間を、好ましい?
「だから立ち止まるな。常に進化し続けろ。退化でもいい。常に変わり続けることが、己自身を見定める一番の材料なのだ」
 不思議なことに、周りの雑音さえまともに入ってこない、俺の頭の中に女王の言葉はすんなりと入ってきた。
 女王が俺に覚えさせたいのか。俺が覚えていたいのか。
「向上心を忘れるな。飛ぶことを止めた鳥はただ地に向かって落ちていくだけなのだから」
 どちらなのかはわからない。
それでも、たぶん、俺はこの時のことを忘れないと思う。
「他人を見るな。自分を見ろ。そして自分だけの道を歩いていけ」
 何年経っても、年を取っても、呆(ぼ)けても。
 多分、一生。




 それからも、あちこちに連れまわされて俺は随分と疲れてしまった。
 次はどこに行く気だろうと溜め息を吐いていると、視線の先で女王は、細い路地裏に入っていった。
 そんなところに入っても何もないだろうと訝(いぶか)しく思って、俺も細い道に入ったときだった。
「「陛下」」
 それは、聞こえた。
 男と女の入り混じった声だった。
 左右の建物の壁から響いてきたその音源を捜すまでもなく、それらは現れた。
 左の壁から、平安時代の狩(かり)衣(ぎぬ)姿で、扇を持った男性が。
 右の壁から、露出の多い和装で、木槌(きづち)を持った女性が。
 それはそれぞれ女王と同じ、人ではない者のオーラを放ちながら、俺たちの前に現れた。
 現代人とさして変わらない格好をしている女王と違い、現れた二人の格好はあまりに異様だった。何かのコスプレでもしているのではないかと思うくらいだ。
「げー、見つかったかあ……」
「見つかったかあ、ではありません、陛下!」
 和装の女性が眉を吊り上げながら女王に歩み寄る。
 長い艶のある黒髪に、胸とふくらはぎの覗(のぞ)く短い着物。足元に至っては下駄だ。
 怒っているというのに、女性はそれすらも気にならないほどの美女だった。
「そうですよ、あれほど勝手にお出かけにならないでくださいと申し上げましたのに!」
 一方の男性はというと、こちらも女性に負けず劣らずの美男だった。
 露出の多い女性に対し、品のいい青緑の狩衣をかっちりと着こなしている。堅物そうなイメージを、カラーリングしたかのような茶色い髪が和(やわ)らげていた。
「悪かったって。だって、一箇所にずっと籠もっていると暇になるんだ」
 どうやら、女王はこの二人と知り合いらしい。それどころか、主従関係でもあるようだ。……本当に偉かったのか。
 そう思いながらも俺は、唐突に現れた謎の美男美女にどう対応することもできず、ただ三人を目の前にして固まっていた。
「――それで、陛下。そこの人間は何なのです?」
 男性がこちらに射抜くような視線を向けた。それだけで身が竦(すく)んだ。確実にこの人は俺のことを良く思っていない。
「神野(しんの)。そう脅(おど)かすな。まだ子供ではないか」
「子供だと? 甘いぞ、山本(さんもと)。以前はこの年になると、もう立派な大人だったではないか」
「何百年前の話をしているんだ、お前は。情報が足りないにもほどがあるぞ。今は二十にならぬと成人したことにならんのだ」
「未成年とはいえ、物事の分別がつく頃だ。何ぞ、うまいことを言って陛下を丸め込んだのやも――」
 俺はぎょっとした。冗談じゃない。俺はサボっている最中にやってきた女王に連れ出されただけだ。つまりは被害者。なのだが、反論しようとする声は出ない。目の前の三人のオーラに圧倒されて口が開かなかった。
「五郎左衛門(ごろうざえもん)、悪五郎(あくごろう)、やめろ。この子供は私の暇つぶしに付き合わせた、ただの人間だ。何もされてはいない。した覚えはあるがな」
 俺はまたぎょっとしたが、思い起こせば、確かに女王に連れ出されたり説教されたりした。結局あれは何だったんだ。
「ともかく陛下、お帰りになってください。他の者どもも心配しておりますので……」
「はいはい、わかったわかった」
 いかにもやる気のない返事をした女王は、頭をがりがり掻きながら俺と向き合った。
「じゃあそろそろ帰ることにする。今日一日付き合わせて悪かったな。さっさと学校帰れ。また小説書け。あと猫かぶりはほどほどにしろ。本当の自分がわからなくなって身も心も病むことになるぞ」
「大きなお世話だ」
「それから」
「まだあるのかよ」
 そういえば、この女王は女王だというのに、ぺらぺらとよく喋る。
「いい進化しろよ」
 わけのわからない言葉に目頭が少し、熱くなった。
「私は人間が好きだから、いい方向に進化してもらわないと困る」
「……当たり前、だろ」
「うん」
 自分より背の低い女王によしよしと頭を撫でられる。
 なんだかとてもみっともなかった。
「じゃあな。運がよければまた会おう」
 そう、あっさりと別れを告げて、女王とその家来たちは空中に消えた。
 まるで、シャボン玉がはじけるように、一瞬で。
 今までのことが夢であったかのように感じられる。
 女王と会ったことも。
 空を飛んだことも。
 説教されたことも。
 女王の二人の家来が現れたことも。
 三人が俺の目の前で消えたことも。
「夢だったのかなあ……」
 だけど、夢じゃない。
 夢は起きたらすぐに忘れてしまうけれど、俺はちゃんと覚えている。
 女王の姿、言葉、強い視線、全て。
 忘れていない、ちゃんと覚えている。
 学校に帰ろう、そう思う。
 さっきの今で、俺の何かが変わったわけではないけれど、今はなんだか人に会いたかった。
 夕方のそれに変わりつつある、午後の日差しの中を学校に向かって歩いた。ちらりと見えた銀行の電子時計は三時を回っていた。この分だと、学校につく頃には午後の授業は全て終わっているだろう。
 それでもいいか、と思う。妙に気分がすっきりしていた。
 一歩一歩、俺は確かに歩いている。
 こんな風に歩けばいいのだ、いつだって。
 細い路地裏を、ただ歩いた。
 学校指定の、白い上履きで。




 家に帰って、インターネットで女王のことを調べてみた。
 造物大女王。日本で十二人いる魔王の中で、一番の力を持つ魔王らしい。その何行か下には、神野悪五郎月影と山本五郎左衛門百谷(ひゃっこく)という、どこかで聞いた名前の魔王もいた。
 俺はくすくす笑いながら、文章作成ツールを起動した。
 何をするかって?
 小説を書くに決まってる。もう一度、スキル0の状態から始めることにした。
 タイトルはもう決まっているから、俺は迷うことなく、単語を打ち込んでいく。
『人』
『間』
『進』
『化』
『論』
 人間が何かはまだわからない。
 もしかしたら、一生わかることはないのかもしれない。俺はまだ子供で、相変わらず早く大人になりたいと思っている。
 それでもわかっているのは、俺に説教をして己の好きなように連れまわした女王は良かったり悪かったりして、やっぱり神でも魔王でもないということ。
 そして、そんな女王がいる限り、人間は良い進化を続けるということだけだった。
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