耳が拾う想い

01

『こんにちは! お昼の放送の時間だよ!』
 耳に入る声に、胸の奥がきゅっとする。
 友人がいる手前、緩む頬を引き締めようと試みたものの、その努力は彼女の呆れた表情で空しく潰(つい)えたことを知る。
「……彩香(さいか)。あんたって本当に好きよねー」
「だってさあ、ねえ?」
 知ってるでしょ? と言わんばかりに見やれば、思った通りの溜息が返ってくる。
「いや、確かにアンタが変な性癖持ってるのは知ってたけどさ。だからって、放送一つでニヤニヤしなくてもいいじゃない?」
「いいでしょ、好きなんだから! あの高さと低さを兼ね備えた音調(トーン)。それに独特の間と声量。一つでも欠かすことのできない至高の」
「はいはい、わかってるわかってる! こちとら何十回も聞かされたら覚えるっての」
「ご、ごめん」
 羞恥に顔が熱くなる。だが、彩香はあの声に対する情熱を口にせずにはいられなかった。
 いつもそう、彩香は好きな“声”のこととなると、自分の中のエンジン的な何かがフル回転して止まらなくなってしまうのだ。
「男の声が好きなんて……あんたって本当、変わってるわね」
 自分でもそう思う。彩香の男性の趣味というものは一風変わっていて、顔でも身長でもステータスでもなく、“声”だった。
 事実、音楽プレーヤーの中は彼女がいい声と認めたアーティストや声優の曲がいくつも保存されている。
「えーと、でも、声って重要じゃない?」
「……まあ、確かに顔の次くらいに印象づくものだしね。でもあんたみたいに声一つできゃあきゃあ騒ぐ子は稀」
「うぅ」
 彩香だって、自分の趣味があまりにマニアックであることは十分にわかっている。
 ただ、好きな声が耳に入るだけで心地よいと思えるし、心臓はどきどきと騒がしくなる。
 どうしようもなく、好きなのだ。声が。
 特に、今彩香が夢中になっているのは、大学内で流される、お昼の構内(こうない)放送。正確には、構内放送のメインパーソナリティ、Akira(アキラ)の声だった。
「Akiraさんって、いい声よねえ……」
「やれやれ、また始まった」
 Akira。
 それは、この春から新しく構内放送のメインパーソナリティになった男の名前――もちろん偽名――だ。
 彩香にとって幸運なことに、彼の声は彼女の趣味のど真ん中をついていた。やや高めよりの低音。高音域も綺麗に出る安定した声と声量。耳に届けば体が震えて、口元が緩む。
 どんな人なんだろう。
 彼の放送が始まってから半年。彩香はまだ声の持ち主の正体を知らなかった。同じ放送部ではあるが、直接会ったことは一度もない。
 放送部にはアナウンサーなど広報関係の仕事を希望する学生が多くいて、全員が集まることなど滅多にないからだ。その上いくつかの班に分かれていて、彩香の所属する行事(ぎょうじ)班は、Akiraの所属する構内班とは活動時期も場所も全く違う。初めてAkiraの声を聴(き)いた時は、組分けをした部長を恨(うら)んだほどだ。
 気にはなるが、会えない相手。それがAkiraだ。ただ一つわかったのが、彼が一つ年上の三年生だということ。
『今日の放送は、Akiraとスージィ。がお送りしました! それではみんな、また明日!』
 軽やかなあいさつの後は、穏(おだ)やかな音楽が流れ始める。彩香はその音楽がいつも恨めしかった。至福の時間が終わってしまった。
「あーあ、終わっちゃったー……」
「いいけど彩香、アンタ早く食べたら? この後、英語なんだから食べないともたないよ」
「はっ、そうだった! い、行ってくる!」
 彩香は慌てて財布を手に立ち上がった。至福の時間の後はいつも、時間との戦いだった。

「あー、もうこんな時間!」
 日はとっぷり暮れ、いつもならとっくに帰っている時間に、彩香はまだ大学にいた。今日の授業で出された英語の課題を済ませてしまおうと図書館に籠もっていたら、いつの間にかこんな時間になっていたのだ。
「早く帰らないとお母さんが怖い……ん?」
 遅い時間とはいえ、構内にはまだ人がいる。人気のなくなった休憩スペースの一角で、何事かもめている男女三人がいた。しかも、女性の方には見覚えがある。
「あれ……部長?」
 少しばかり遠くてよくわからないが、それは放送部部長兼行事班班長の今宮(いまみや)に似ていた。声も似ている。多分、本人なのだろう。
 興味がわいたこともあり、そろそろと近づいていく。やがて、今宮と一緒にいるのは眼鏡(めがね)をかけた男性と白いニット帽をかぶった男性だということがわかった。
「もうやらねぇっつってんだろ!」
 あれ、なんだか聴き覚えのある声。
 叫んだのはニット帽の男性で、表情は怒りに満ち満ちている。
「有可(ありか)! 落ち着けよ。お前が嫌がってたのは知ってたけど、何も辞(や)めるほどじゃないだろ? いつものことじゃないか、あんなの」
「それが嫌だって言ってるだろ! メインパーソナリティの座なんか、欲しけりゃくれてやる!」
「えっ」
 激昂(げっこう)していたせいか、すぐにはわからなかったが――まさか、この声は。
「あら? ……彩香?」
 思わず出てしまった声に今宮が気付いて声をかけてきたが、彩香自身はそれどころではなかった。
 聴き覚えのある声。メインパーソナリティ。
 それでわかった。この男性は、あのAkiraなのだ。
 出会えたことに感動したと同時に、深い失望が胸の中にじわじわと広がる。
 メインパーソナリティの座なんかくれてやる――それはつまり、構内放送で、もうあの声を聴くことができなくなるということなのだろうか。
 Akiraがメインパーソナリティを嫌がっていたことも驚いたが、辞めるという件に関しては頭が真っ白になってしまった。
 もう聴けなくなる。なくなってしまう。あの幸福な時間が。
「あの!」
 そう思ったら、いてもたってもいられず、彩香はニット帽の男性に声をかけていた。
「ああ? 誰だ?」
「彩香?」
 憧(あこが)れの声を生で耳にして、嬉しさで頭がくらりとする。あのAkiraの声を生で聴けるなんて、今日はなんてラッキーなんだろう。
 ――じゃなくて、アンラッキーだ。
「二年の藤堂(とうどう)彩香と申します! Akiraさんとお見受けします!」
「……そうだけど?」
「古風な言い回しをする子だなあ」
「あの子、行事班の子。Akiraのファンよ」
 とにかく話しかけてみたものの、何を言えばいいのかわからない。頭の中がぐちゃぐちゃで、言うべき言葉が浮かんでこない。
 憧れていた声の持ち主が、今目の前にいる。しかしその人物はパーソナリティを、もしかしたら放送部自体を辞めようとしている。
 しかし、彩香にとって、それは非常に耐えがたいものだ。
 考えすぎてヒートアップした彩香の頭は、とんでもない言葉を口から吐き出させた。
「あなたのその声に惚(ほ)れています! 辞めないでください!」
 ――一瞬、その場に完全な沈黙が訪れた、気がした。
 同時に、彩香の胸の内に湧き上がってきたのは強い“やっちまった”感。冷や汗がだらだらと体中を流れていく。
 衝動に任せて、何ということを口走ってしまったのか、自分は。
「…………変な女」
 心底呆れたような表情でAkira、もとい有可は眉根を寄せた。嫌そうな声だ。
 有可の表情から、本当に降板を望んでいるのかどうかはわからない。だが、他の二人に対しては批判的な態度であることがわかる。
「さて有可。ファンにも引き留められたことだし、思いとどまったらどうだ?」
 沈黙し、すぐに言い返さない様子を見るに、彼は真面目な人間であるらしい。本当にいい加減な人間なら、ここで何もかも投げて行ってしまうはずだ。
「わかった。戻る」
「本当ですか!」
「ただし条件がある」
「条件?」
 彩香が首を傾げると、部長が先を促した。
「言ってみて」
「藤堂が文化祭の講堂(こうどう)ステージの司会を丸一日無事に務めたら戻ってやる。無理なら、もう構内班には戻らない。あいつらの妬(ねた)みの対象になるのはもう御免(ごめん)だ」
「!? な、なんで私なんですか!?」
「辞めるなって言うくらいなんだから、それくらいはしてくれるんだろ」
 文化祭の講堂ステージの司会といえば、難しい・大変・高い技術が必要なことで有名だった。いつもなら行事班一のトップ――今年なら今宮――が務(つと)める役だ。
「あ、それいいわね! ちょうど誰にしようかなあって悩んでたところだったの。彩香ならまあ、いいわよね。去年も一部、司会やったし。ね、曽根(そね)? 彩香?」
 曽根、と言えば確か、構内班の班長だったはずだ。だからこの場にいておかしいことはないのだが、彩香の頭はそれどころではない。
「まあ、いいかな。いいんじゃない」
「よよよくないですよ……」
 選択肢があるようでなかった。承諾(しょうだく)しなければ有可は戻らない。だから彩香には承諾するしか選択肢がなかった。だが、そんな大役(たいやく)を務められるかという不安も大きい。
「はい決定! よかった、万事(ばんじ)解決できて!」
「ええええええええ!? ちょっと部長!!」
 あっさりと会話を終えて帰ろうとする今宮の服の裾(すそ)を慌てて掴(つか)む。
「ほ、本気なんですか、今の!?」
「もちろん。それにほら、よく考えても見なさい、彩香。あんたが頑張れば、Akiraの声がまた毎日聴けるのよ?」
 しばし、間があって。
「――やります! やらせてください!」
 彩香は、また毎日Akiraの放送を聴きたいという己の欲望に負けた。
 楽しそうに笑う今宮と、生温かい目で見守る曽根と、興味のなさそうな有可の目の前で、彩香は鼻息も荒く宣言してみせた。
 そしてすぐに正気に戻って、後悔することになる。

「あっりっかさん♪」
「……何か来た……」
 彩香は翌日、さっそく大学内にあるカフェに来ていた。有可は空き時間があるとよくそこで休憩(きゅうけい)したり、レポートを書いていると曽根に聞いたからだ。人気のある彼が構内班の部員から嫉妬(しっと)されて、半年もの間、批判(ひはん)を浴び続けた末に辞めると言いだしたことも。
「ああ、やっぱりいい声っ」
「……何の用だ」
「有可さんの声を聴きに来ました! 構内放送では聴けなくなってしまったので」
結局、Akiraは構内放送からいなくなってしまい、彩香の昼休みはほとんどの時間が空いてしまった。Akiraのいない放送には興味がなかった。
「帰れ」
「低い声も素敵ですっ」
 有可は眉根を寄せて、露骨に嫌そうな顔をしてみせた。確かに普通は、こんなふうに付きまとう人間は嫌だろう。
「大体お前、文化祭の準備で忙しいだろ、なんでこんなとこにいるんだ。あと一か月だぞ」
 文化祭の講堂ステージは一か月前から調整に調整を重ねなければ勤まらないという。毎日の発声練習に朗読、さらに舞台に立つ部との話し合いで当日の原稿とタイムテーブルを作成しなければならない。
 昨日の自分に関しては浅慮だったと言うほかないが、一度宣言してしまったからには努力するつもりだった。
「発声と朗読練習は毎日やってますよ。あ、原稿は授業中に作ってますから大丈夫です」
「授業聞けよ」
「有可さん、綺麗な字を書きますね」
「おい、話を聞け」
 有可冬(とう)弥(や)、と名前の書かれたレポート用紙の上には、有可の丁寧な字が書き込まれている。彩香よりも上手いかもしれない。
 彩香は時間の許す限りまで有可にはりつき、彼の目が茶色っぽいことや甘党であることなどを知った。
 初めて知る、Akiraの実像だった。
「お前、もう帰れ」
「はいっ、また来ますね!」
 邪険(じゃけん)にされるが、憧れの相手が目の前にいて自分の好きな声で話している。そのことが、彩香をどうしようもないくらいにどきどきさせていた。

それから彩香は、毎日のように有可の許(もと)に足を運んだ。

      *  *  *

「有可さーんっ」
「また来た……」

      *  *  *

「今日もいい声ですねー」
「いい加減やめろ、それ」

      *  *  *

「資料探してるんですか? お手伝いします」
「あーもう!」

 一か月近くもくっついていると、有可の方でも観念(かんねん)したのか、徐々にあちらから話をしてくれるようにもなった。彩香も、最近では彼の声を聴くよりも、彼自身のことが知りたいと思うようになっていた。
 それでも、もう難しい。一週間後には文化祭が迫っていて、忙しくなる。今のように有可を訪ねる時間が取れない。だから彼を訪ねるのも、今日で最後にするつもりだった。もともと少し嫌がられていたこともあるし、Akiraがまた構内放送を続けてくれるなら、有可を訪ねる理由もないからだ。
 準備は順調だった。彩香は二日目のステージを担当することになり、保険として曽根がサポートとして、もう一人の司会になってくれた。原稿もタイムテーブルも完成し、後は本番を迎えるだけとなっている。
 だが、それが辛かった。
 有可を訪ねる理由が欲しかった。彼の傍(そば)に行って声を聴いて、彼のことを知りたかった。
 いつの間にか、“Akira”ではなく、“有可”という男性を好きになっていた。でも、だからこそ、嫌われることはしたくなかった。
「……有可さん?」
 昼食後、彩香はいつものカフェにいる有可の傍に寄った。有可は何故か椅子にもたれてぐったりしている。
「どうしたんですか? 具合でも悪い……」
「……疲れた」
 ぼそりと一言出れば、後は濁流(だくりゅう)のように言葉がこぼれ出した。その声からも、彼が随分と疲れ切っていることが知れた。
「今日はレポート二つと、構内放送の企画書の締切日だったんだ。面倒くさいものが三つも重なれば疲れるに決まってる。本当にもう、あいつらめ……!」
 後半はレポートの提出期限日にそれくらいしろと企画書の提出を求めてきた意地の悪い構内班の部員たちへの愚痴(ぐち)だった。よほど鬱憤(うっぷん)が溜まっているらしい。ぐったりしているというのに、有可の口はよく動いた。
 彩香にも愚痴をこぼすくらいだから、相当疲れて苛立っているのだろう。彩香は彼の隣に立って、項垂(うなだ)れた彼の頭に手を伸ばした。
「……何をしている」
「頭をなでなでしてます」
 彩香はゆっくりと椅子にもたれかかった有可の頭を撫でた。意外に剛毛で、まっすぐな髪と、少し汗ばんだ頭皮。コーヒーの匂い。
「さすがに疲れましたよね、レポートと企画書の同時進行なんて」
「ああ……」
 珍しいことに、有可は大人しく撫(な)でられていた。それがどうしてなのか、顔が見えないこともあって彩香にはよくわからなかったけれど、拒絶されないことは嬉しいことだった。
「安心してます? ならよかったです」
「……何でわかるんだ、お前は……」
「声でわかりますよ。ご本人に会うまではずっと声だけを聴いていましたから」
 彩香は笑って、有可の頭をもう一撫でした。彼に触れられるのは、これが最後だろう。
 結局、もう来られないことは言えなかった。

 そして当日。文化祭、二日目。
「さあ、今日はがんばるぞ!」
 何せ、今日の自分の頑張り次第で、有可が構内班に戻ってくれるかどうかが決まるのだ。
 結局、あれから一度も有可には会っていない。少し寂しいが、もう今日一日の辛抱(しんぼう)だ。明日にはまた放送で、彼の声が聴けるのだ。
気合も十分に、まだ来ない曽根を待っていると、休憩室に部長が飛び込んできた。
「大変よ、彩香!」
「部長?」
「曽根が食中毒で病院に……。とてもこちらに来られるような体調ではないって!」
「ええ―――――っ?!」
 予期せぬ事態に、周囲もざわざわと騒ぎ始める。彩香の頭の中はそれ以上だ。
「どどっどどどどうしましょう!?」
「うーん、代役を頼むにも、人が……」
「だだ誰か! 代役お願いします!!」
 休憩室にいる部員たちに声をかけるものの、今日一日空(す)いている行事班の部員などいない。
 諦(あきら)めて一人でやるべきかと覚悟を決めかけた時、その声がした。
「……それ、やってやってもいい」
「……有可さん!」
 騒がしい休憩室の中、耳はその小さな声を無意識に、しかししっかりと拾(ひろ)った。
 この声を聴き間違えるわけがない。ここしばらく聴くことができなかった声。
 彼の――有可冬弥の声だ。
 振り向くと、いつの間に来たのか、有可がそこに立っていた。行事班でもない彼は今日、何の用事もないはずなのに、なぜこんなに早い時間に来ているのだろう。
「有可、来てたの」
「たまたまだ。藤堂、原稿は?」
「あっ、こ、これです」
 慌てて出していた原稿を手渡す。昨夜清書しておいて、本当によかった。
「本番前に詰(つ)めるぞ。会場行く準備しとけ」
「は、はいっ」
 どうして有可がここにいるのかはわからなかったが、これ以上頼もしい助っ人も他にはいない。彩香は大人しく指示に従った。

 講堂はステージを見に来た客でいっぱいだった。まだ空きはあるが、この分だと残りもすぐに埋まってしまいそうだ。
 彩香は有可と共に放送席に着き、最終チェックを行っていた。
「……思ったより多いな、客」
「外で部長が、Akiraの名前を使って呼び込みしてますから」
「いや、それだけじゃないだろ絶対」
「そんなことないですよ。私、昨日もここにいましたけど、ここまでは入りませんでしたもん。みんな、有可さんを……いえ、Akiraを待ってるんですよ」
「……」
 有可は答えなかった。だが、その顔はどこか満足そうにも見えた。対する彩香はといえば、情けないことに、迫りくる本番に対する緊張で体が震えてきた。
会場の電気が落とされて、有可の顔が見えなくなる。
それでも声は聴こえる。ずっと夢中だった、大好きな人の声が。
「緊張して……る、よな」
「はい、でも……」
 彩香は顔の筋肉を動かして、精一杯笑顔を作ってみせた。見えないとはわかっている。
「有可さんとなら、何でもできる気がします」
 暗闇の中、有可が照れたように微笑んだのが、空気が小さく動く音と声でわかった。
「じゃあ行くぞ、準備はいいか?」
「はいっ、よろしくお願いします!」
 そして二人はマイクのスイッチを入れて、大きく息を吸い込んだ。

「はー……」
 疲れた。
 彩香の頭にあるのはその言葉だけだった。
後頭部が重く、体全体がだるい。体を動かす気力も起きない。
パイプ椅子に座って机の上に突っ伏した状態で、もう何分そうしているだろう。
何も入っていない、風が通り過ぎるだけの空虚(くうきょ)な穴。それが自分の肉体の裏に存在しているような気がした。
 休憩室には誰もいない。もうすぐ今宮が司会を務める後夜祭が始まるため、準備と見物とで、全員出払ってしまったのだ。有可も本番の終わった後、ファンや部員に囲まれてしまい、今はその対応に大忙しになっている。彩香も、Akiraに、あんなにたくさんのファンがいたとは思いもしなかった。有可にとっては、彩香もその中の一人にすぎないのだろう。それがまた寂しく、悲しい。
 頭をころりと転がして、長く長く溜息を吐く。誰もいない部屋に、空気の動く音だけが大きく響いた。
 言葉にできない不安と焦りと寂寥(せきりょう)が体の中の空虚な部分をぐるぐると回っている。
 それらを感じるにつけ、あの時ああしておけばよかったとか、もう少し気の利いたことが言えたのに、なんて後ろ向きな事ばかり頭に思い浮かぶ。そして最後には彼の顔。
「失望、したかな……」
「んなことはない」
 突然の声と共に、頭に乗せられた大きな手の感触。耳が、心が求めていた声。
 こんな時にもかかわらず、ちゃんと反応して跳(は)ねる体と、きゅっとなる心臓。
 驚いて顔を上げると、いつの間に入ってきたのだろう、隣に有可が立っていた。
「あ、ああ有可さん」
「ん。お疲れ」
「お、お疲れ様です」
 どこで買ってきたのか、まだひんやりと冷たいスポーツドリンクを手渡される。
 まだ固まっているような感覚の残る体をぎこちなく動かして、ペットボトルの中身を一気に半分ほど飲み干す。気がつかなかったが、よほど喉が渇いていたらしい。
「よく頑張ったな」
 もう一度、くしゃりと頭を撫でられて涙腺(るいせん)が緩む。悟(さと)られまいと慌てて下を向いたら、今度は頭を引き寄せられた。頭部の右側面が有可の腹に当たって、じんわりとした暖かさを伝えてくる。
 強くはないが、確かに男の力強さを備(そな)えた手で引き寄せられて、顔が熱くなっていく。
「あああ、あり、有可さん?」
「ちゃんと、できてた。自分ではわからなかっただろうけど」
「……ありがとう、ございます……」
 有可の手がくしゃくしゃと彩香の髪を撫でていく。何だか子供をあやすような手つきに、体の中に安堵(あんど)が広がっていくのがわかった。
 体の中の空虚が素早く満たされていく。
 熱い風呂の中に入った時のように暖かいものが体中を駆(か)け巡って、鼻の奥がつんとした。
 ああ、そうか。
 欲しかったのは、こうして安心させてくれる相手なんだ。
 傍に来て、話を聞いて、そして大丈夫だよと言ってくれる存在。たったそれだけだったのだ。
 耳から入ってくる優しい声が、彩香の空っぽの心を満たしてくれる。愛しい声。
 有可だから、こんなにも安心できるのだ。ファンの一人としてではない、今の彩香自身をきちんと見てくれているから。
「……ちゃんと慰(なぐさ)められているか、俺?」
「……っ、はい……。ありがとうございます」
 今にもこぼれてしまいそうな涙を必死でこらえる。嫌だ、この人の前で泣きたくない。
「よかった。こないだお前にしてもらったら、安心したから。俺もお前にそうできてれば嬉しい」
「え……」
 思わず有可の顔を見上げてしまった。その拍子に、涙が目尻からぼろりとこぼれる。
 有可は慌てて袖で乱暴に彩香の涙を拭い、頭をさらに強く自分の体に押し付けた。
「女の慰め方なんて知らないぞ、俺は……」
 緊張した大好きな声に熱い体温、どくどくとうるさい鼓動の音、少し汗ばんだシャツ。
 何故だか安心するそれらを感じながら、彩香も有可の体に自分の頭を押し付けた。
 自分の中の空虚な穴は、もう感じない。
「……有可さん。私やっぱり、あなたの声も好きです」
「声、も? 声、が、だろ……」
 その拗ねたような口調で、見えない彼の表情が容易に想像できた。きっと、ふてくされた顔で、少し唇を尖(とが)らせて。それが手に取るようにわかって、くすりと笑みがこぼれる。
「いいえ。声も、です」
 どこか納得いかないと言わんばかりの唸(うな)り声が頭の上でした。きっと、彩香が自分の声“だけ”を好きなのだと思っていた――というより思い込んでいた――から、その事実を認めたくないのだ。彼の今までの言動からも、それはよくわかる。臆病(おくびょう)で、慎重な人なのだ。
 だから彩香はあえて言葉にした。今この時にしなければ、この人にはきっと届かない。
「毎日会って、あなたのことを知るのが嬉しかったです。顔も、姿も、不器用な性格も、仕草も、みんな好きですよ」
 有可の体が硬直したのがわかった。どう反応していいのかわからない、と言わんばかりの低い唸り声だけが口から漏れ聞こえてくる。
 それでも彩香は辛抱強く待った。頭を抱きかかえられたままの体勢で、彼の唸り声とどんどん早くなっていく彼の心音を聴(き)きながら。
「……俺もお前の、声、も、好き、だぞ……」
 大きくて厚い手がぎこちなく彩香の頭を再び撫で始めた。嬉しさと愛しさで頬が緩む。
「えへへ、嬉しいなあ! やっと有可さんがデレてくれた……!」
「あーくそっ! ここで告白するなんて卑怯だぞ! 絶対に声目当てだと思ってたのに!」
「以前までは。もう違いますけど」
「それは聞いた、し……よくわかった。この際だから白状するが」
 有可はぽそぽそと内緒話をするように小さな声で話し始めた。きっと顔は耳まで真っ赤になっているのだろう。
「たった一週間なのに、お前の声がないと物足りなかった。今日も朝から大学に来てたのだって、ステージでお前の声を聴こうと思ったからだし……つまり」
 一呼吸おいて、有可は大きく息を吸った。
「俺もお前の声、好きになってた。これからも毎日聴きたいと思う。顔や性格や仕草も、全部、好き、だ……」
 何故か尻すぼみになっていく告白に、彩香もつられて照れてきた。それでも有可は喋(しゃべ)り続ける。
「一週間前にはもう好きだった、と思う、んだが。お前が俺をどういう風に見ているのかわからなかったから、自分の気持ちに気づかないようにしてた。悪かったな……」
 どんどん溢れる有可の心。想(おも)い。彩香はそれを耳で聴いて、受け止めていた。
「……私、有可さんには嫌われてると思っていましたけど」
「初めて会った相手に、声に惚れた、なんて言われたら慎重にもなるだろう!」
「はっ、そうだ、構内放送! また続けてくれますよね! Akiraも!」
「……お前が俺の彼女になって、毎日声を聴かせるっていうならな」
「え……」
 その言葉と内容に、彩香の体から力が抜けた。好きな人の、世界で一番好きな声に、こんなことを言ってもらえるなんて。
体に力が入らない。腰が抜ける、とはこういうことなのかもしれない。
「は、はい! 毎日会いに行きますです!」
「……今度は俺から会いに行く。待ってろ」
 羞恥と愛しさの籠もる、想いの詰まった声。
 耳が拾う想い。
 それを受け取ることのできる自分はなんて幸福(しあわせ)なんだろうと、彩香は有可の腕の中で、言葉にできない感情を噛みしめていた。

 了
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