風邪のはやる時期はマスクをつけなきゃダメ

01

「ふえっくしょん!」
鼻をすすり、むずむずする鼻を押さえる。
人はどうして、くしゃみ一つにこんな大声を出すのか。近くにいた人々の目が驚きに見開かれているのが恥ずかしい。
 まったく、花粉症の季節でもあるまいに、どうして往来でくしゃみが出るのだろう。言っておくが、あたしは花粉症ではないし、風邪でもない。
 今のはただ――そう、ただあたしの敏感な鼻が宙を舞うホコリをキャッチしてしまっただけだ。断じて、風邪や花粉症ではない。
 手から下げたビニール袋が通行人に当たってがさがさと音を立てた。
 店名が青でプリントされた白いビニール袋に入っているのはマスクだ。ざっと見て、半月分くらいはある。あまり使わなければ、二、三ヶ月はもつだろう。
 え? 何故そのマスクを今つけないかって? 新型インフルエンザかも?
 だってこれ、私のマスクじゃないんです。




「おじゃましまーす」
一応、インターホンを鳴らして、返事も待たずに中へ入る。
 幼い頃から慣れ親しんできた家だ。勝手知ったる他人の家、というやつで台所に入り、戸棚からカップとコーヒー瓶を取り出してコーヒーを作っていく。
 おじさんは仕事。おばさんはパート。お姉さんはデートで、ペットの猫も外出中。
 あたしが渡(わたり)家に来る時は、大抵他に誰もいない。
 働いたり出かけたりするのが好きな家系なのだろうか、彼らがいるのは平日なら朝早くか夕方以降、休日なら昼までか夜遅く。ご近所さんなので時々顔は合わせるけれど、時間をすれ違ったりすると、おじさんみたいにもう一ヶ月も顔を見ていないなんてこともある。
 おじさん、元気かしら。この前会った時は、年のせいか腰が痛いって苦笑してたけど。
 電機ポットのお湯は空になっていたので、やかんに水を大量に入れて火にかける。コーヒー用に作るものだけど、余れば電機ポットに入れちゃえばいいし。
 お湯が沸くまでの間にコーヒーミルで豆を挽いておく。きいこらぎいこら音を立てて豆を挽くコーヒーミルの取手を動かしていると、どこか不思議な気持ちになる。何でだろうと記憶を探ると、学校で古文の先生がドナドナを歌いながら古いコーヒーミルで豆を挽いていたことを思い出す。
 ……何だか嫌になったので、取手を回す手を早めた。いらんことは思い出すべきじゃない。
 挽いた豆をすでに準備万端のフィルターの中に落とし、いい具合に沸いたお湯を注ぎ込む。
 ほわりとした湯気と共に、コーヒーのいい香りが立ち上ってくる。
 昔はいい匂い、なんてこれっぽっちも思わなかったけど、人間って不思議だ。年を経るごとに苦手な食べ物が少なくなっていく。というか、大人としてそうしなければいけないのだけれど。
 ようやく出来上がった二つのコーヒーの内、一つに角砂糖を三個とミルクを大量に流し込む。もう一つの方は角砂糖二つ。
 結局コーヒーは砂糖を大量に入れて甘くしなければ飲めないのだ。
 そのカップと、テーブルの上にあったクッキーの箱、それとさっきのマスクを袋ごと大きなお盆の上に乗せて二階へと上がる。残りの荷物は、後で持っていけばいい。
 目指すのは、二階の突き当たりの部屋。
 両手がふさがっているから、足でごんごんとドアをノックする。
「京(きょう)ちゃーん、開けてー」
 そう言ってもう一度ノックをするのだが、中からの返事はなし。ドアが開く気配もなし。
 仕方なく、お盆を左腕で支えるようにして、左手でドアノブをひねった。
 わずかにドアが開いた後は、足でドアを開いてしまえばいい。
 ようやく室内に入ることができた。
 ずっと中にいたはずの京ちゃんは、たった今気付いたかのように、机から顔を上げた。
「やあ、菜緒(なお)」
 またドアを足で叩いたのか、と苦笑する京ちゃんの顔は、あたしと同じ高三のはずなのにどこか大人っぽい。
 悔しいなあ、と思いながらも、こればかりは生まれつきでどうしようもない。あたしの顔が子供っぽいのと同じだ。
「はい、コーヒー」
「ありがとう」
「あとこれ、マスク。どれがいいかわからないから適当に買ってきちゃった」
 そう言って、ビニール袋を差し出す。中には、どれがいいかわからなくて、適当にかごに突っ込んだマスクが五、六種類入っていた。
 昔はガーゼマスクだけだったのに、今じゃ立体的なものとかウイルス分解機能のついたものとか、とにかく種類が多い。
 どのマスクがいいかなんて、人それぞれだからわからない。
 どうせ京ちゃんのだし、と思ってそれぞれのマスクの性能もよく見ていない。判断基準はパッケージだ。良さそうなパッケージのものを選んで買ってきた。
 でもそれが京ちゃんにとって良いかどうかはわからない。現に今、ビニール袋の中を覗いた京ちゃんの顔が変に歪んだ。
「えーと……とにかく、ありがとう」
「どういたしまして。ねぇ京ちゃん、そのマスクどうするの?」
「使うんだよ、もちろん」
 テスト前なんだからつけなくちゃ、と京ちゃんはマスクの袋を一つ開けて、取り出したマスクをつけた。コーヒー淹れたのに。
「そんなにいっぱい、何に使うの?」
「こうしてつけて使うに決まってるじゃないか」
 それ以外の使い方ある? と首を傾げられれば、もう何も言えない。
「まさか、全部日常用?」
「そうだよ」
 そうだよってアナタ、一度にそんなに買う人がいますか。いや、買ってきたのはあたしだけど。マスク五、六袋買ってきて、って言ってきたのは京ちゃんじゃない。
 いぶかしんでいる間に、京ちゃんはマスクを袋から取り出して机の上に積み上げた。
「だって、毎日使ってたらすぐになくなるじゃない」
「はっ? 一日一枚ってこと?」
「うん」
 新型インフルエンザ流行の兆しが見えるからか、今年になって京ちゃんは急に感染予防に力を入れだした。そんなことをしても、感染(うつ)る時は感染るし、感染らない時は感染らない。
「……京ちゃん、京ちゃんは大学受験終わったよね?」
「うん。指定校推薦でね」
 腹立たしい。あたしなんか、これから試験があるというのに。
「じゃあ、何でそんなに予防にいそしむの?」
「期末テストがあるからね」
「……大学受験より重要とは思えないんですけど、期末テスト」
「うん。でもテストだからね」
 ……京ちゃんは妙なところで真面目だ。
「あっそ。ま、頑張って」
 あたしは関係ないし、話はここまでと、話題を変えようとした時。
「あれ、何言ってるの。菜緒も一緒にやるんだよ」
「……は?」
 思わず、目を何度もしばたたかせた。
 何言ってるんだろう、京ちゃんは。
「どういうこと?」
「菜緒も俺と一緒に感染予防するんだよ。菜緒はまだ大学受験も残っているからね。俺よりしっかり予防しないと」
 口元がひく、と引きつった。嘘、でしょ?
「ややや、でももうインフルエンザの予防注射したし」
「季節性のでしょ。新型はまだって言ってたじゃない。それに、インフルエンザだけじゃなくて、普通の風邪もひく可能性があるからね」
「で、でもあたしは別に」
「でももへちまもないよ。もうちょっと気をつけなよ、受験生なんだから」
 なんとも耳の痛い言葉。この分だと、勉強不足で滑り止めに受けようとしている私立大すら行けるか危ういことも見抜かれていそうだ。
「どうせ、勉強不足で志望大はおろか、滑り止めの大学受験もやばいんでしょ?」
「うっ……」
 ああ、やっぱりばれている。
「今日、菜緒が何を言いにきたのか、俺はわかっているつもりだよ」
 どうせ勉強を教わりに来たんだろう? と図星をつかれ、冬だというのに、背中を冷や汗が流れた。ここまで不利な状況に追い込まれるなんて、思ってもみなかった。
「でも、俺の予防に付き合ってくれなきゃ、勉強は教えてあげないよ。どうする?」
 京ちゃんの目がすごく笑っている。この目はあたしをからかっている時の目だ。
「……い、一緒にマスクつけますんで、勉強教えて下さい……」
 受験と期末テストという、二つの危険な山を目前にして、あたしは京ちゃんに土下座した。




「ふぁっくしょん!」
 風邪をひいた。見事に。
 あたしではない。京ちゃんだ。
「あー……菜緒、ティッシュ取ってくれる?」
「はい」
「ありがと……げほごほっ!」
 あれほどマスクをつけていたにも関わらず、京ちゃんは風邪をひいてしまった。
 あたしなんて、京ちゃんといる時以外はマスクを全くつけていなかったけど、風邪とは今のところ無縁でいる。やっぱり風邪をひくときはひくし、ひかないときはひかないのだ。
 鼻をかんで、再びマスクをつける京ちゃんを見ていると、呆れまじりの溜息しか出てこない。
「……菜緒、今の溜息は何?」
「うーん、京ちゃんってバカだなあと思って」
「失礼だね。それに、バカは風邪をひかないんだよ。この状況で風邪をひいていない菜緒の方がバカなんじゃないの?」
「大丈夫。たった今、バカも風邪をひくということが京ちゃんで証明されたから」
「本当に失礼だね」
「お互い様でしょ」
 熱あるんだから寝てなきゃダメだよ、と京ちゃんをベッドに無理矢理寝かせる。
「お粥作ってくるよ。何がいい?」
「梅干し。いくらなんでも、白粥はやめてね」
「わかった。あ、郵便局行ってこなきゃ」
 今日は大安だ。大学へ提出する願書を出してこなければならない。郵便局の受付は、四時には閉まってしまうから、早く行ってこないと。
「マスク買ってきてー……」
 毛布の中から京ちゃんが呻(うめ)く。机の上のマスクの山はとっくに減り、丘というのもおこがましいほどの高さとなっていた。
「また適当になるよ?」
「いいよ。お金は後で払うからヨロシク」
 どれだけマスクに依存しているんだろう。今は風邪をひいているから仕方ないけど、治ってもまだつけていそうだ。
 あれ、そういえば。
「ねえ、京ちゃん。何であんなに予防にいそしんでたの?」
 ずっと聞き損ねていたことだった。
 首をひねって問い掛ければ、毛布の中から動物の唸り声みたいな声がした。そしてその後にぽつりと言葉が吐き出される。
「だって菜緒、まだ受験があるだろう。俺を通してうちの家族から感染(うつ)ったらまずいと思って」
 ……やっぱり、京ちゃんは変なところで真面目だ。
「……ありがと。行ってくるね」
 ひらひらと振られる、毛布から出た手に見送られ、あたしは京ちゃんの部屋を出た。




「冷えピタと……。しょうが湯、これも買っておこうかな」
 風邪で寝込む京ちゃん用に、いくつかの細々としたものを買い込む。
 そして最後にやってきたのはマスクコーナー。
 今最も需要があるせいか、コーナーの一角をまるごとマスクが占領している。
 ずらりと並ぶマスクたちに対し、あたしはこの前と同じ心境になっていた。
「どれにしよう……」
 この前より種類が増えている。心なしか、パッケージも以前より派手になった気がする。マスク会社も自分の会社のものを売ろうと必死なのだろう。
「ま、いいか。何でも」
 結局は同じ結論に至り、良さそうなパッケージの商品をぽいぽいとかごに放り込んでいく。値段だけを見れば、どれも似たり寄ったりのものだ。
 お金は京ちゃん持ちだし、と気にせず会計を済ませてドラッグストアの外へ出る。コートに覆われていない足の間を師走の冷たい風が通り抜けていく。
 寒さも相まって、早く帰ろうと早足になる。そこへヤツがやってきた。また。
「ふぇっくしょん!」
 途端に出た大声に、周囲の人の視線が集まる。
 恥ずかしい。でも、前もこんな事があったような……デジャヴ?
 首を傾げつつ、帰り道を急ぐ。
 そこで目に入ったのは、ビニール袋。ついさっきまでいたドラッグストアの店名が入った、白いビニール袋だった。
 中をがさがさ漁って、派手なデザインの箱の中からマスクを一枚取り出す。
 上は鼻にぴったりつくように。下は顎の下まで下げて。
 どうやら、この一ヶ月あまりの中で、あたしも京ちゃんの影響をもろに受けてしまっていたらしい。
 そんな自分に呆れながら、年の末も近い師走の午後の中を早足で歩いた。
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