水都狂面譚

四、いつもの顔の裏にあるもの

 周囲が橙色に染まり始める夕方、真紅は細い路地の片隅に、膝を抱えて小さくしゃがみこんでいた。
 懐にある、御調の腕輪が酷く重く感じられる。
 頭が混乱していて、物事がうまく考えられない。
 ただわかっていたのは、御調に会いたくないということと、半谷一座に帰りたくないということだった。
 だが、今の真紅には、何もかもがわからなかった。
ぎゅっと手に力を込める。
 どうすればいいんだろう。
 どうしたらいいんだろう。
 同じような問いばかりが頭の中を駆け巡る。
 そればかりか、そこから次第に波紋が広がっていく。
 ざわざわと胸のあたりが落ち着かなくなる。
 頭に浮かぶのは、不安を掻き立てるようなことばかりだ。考えれば考えるほど不安になった。
 どうすれば、どうしたらいいんだろう。
 どうあるべきなんだろう。
 不安と疑問の連鎖は止まらない。
 何をすればいいんだろう。
 どこへ行けばいいんだろう。
 誰に何を話せばいいんだろう。
 何を聞けばいいんだろう。
 誰を、何を見ればいいんだろう。
 何を感じればいいんだろう。
 この世の何が信じられるものなんだろう。
 周囲にいる誰が信用できるんだろう。
 今まで真紅という人間を支えていたものが、すっぽり抜け落ちてしまった、そんな気がする。
 もはや、御調も一座も、以前のように簡単に信頼することができなくなってしまった。
 怖い。
 怖い、怖い、こわい、こわい、コワイ。
 底知れない、あまり恐怖とは感じない、漠然とした恐怖が意識の奥底にある。
 それは体の内側からゆっくりと、しかし確実に真紅を侵食していった。
 体が震える。
 止まらなかった。
「私――私は」
 どうなってしまうんだろう。
未来がわからない。予測すらつかない。たったそれだけのことが、怖くて怖くて仕方がない。
 細かく震える体を抱きしめて、真紅は喉(のど)元にせりあがってくるものをなんとか抑え込んだ。
 自分を支える、確たるものがほしい。寄りかかれるものがほしい。
 でないと、自分はきっとおかしくなってしまう。
 支えてほしい。
傍にいてほしい。
誰だっていい。
 ここにきて。
 自分の隣へ。
 今すぐに。
「……真紅?」
 投げかけるようにかけられた声は聞き覚えのあるものだった。
 俯けていた顔を上げると、そこに大きな紙袋を左手に抱えたニールが立っていた。右手には齧(かじ)りかけの林檎が握られており、ニールの口からついさっき齧ったらしい林檎の欠片がぽろりとこぼれ落ちた。
「ニール」
「どうしたんだよ! なんかめちゃくちゃ顔色悪いぞ!」
 林檎を放り捨てて駆け寄ってきたニールの大きな手が、真紅の肩をぐっと掴む。その確かな、手の暖かさに思いがけずほっとする。彼の黒い上着を握ると、何故だか安心できた。
 それで気が抜けてしまったのか、真紅はその場にへたり込んでしまった。
 泣きたくなんかないのに、鼻が熱くなってきて、涙腺が緩む。
「お、おい、泣くなよ? 頼むから泣くのだけは勘弁……っ」
 ニールの懇願も空しく、真紅はニールの服を握ったまま、子供のようにべそべそと泣き始めてしまった。


「何をそんなに落ち込んでるんだ、色男?」
「茶化さないでください。……そんな気分じゃないんです」
 郊外にある白峰の書庫で、御調はひたすら二つの資料を照らし合わせていた。その背中には哀愁が漂い、同僚たちが気遣わしげに彼の方をちらちらと盗み見ている。
 さすがにこれはまずいと思ったのか、他の部下を下がらせた朱玉の表情も、心なしか引きつっている。
「どうせ真紅のことだろう? 事前に染葉には聞いていたんだろうが」
「そうですけど……大丈夫だろうと思ったんです。でもまさか、あそこまでとは……」
 はあ、と憂鬱そうな溜息を吐く。
 重症だ。御調が真紅になついていたのは知っていたが、まさかここまで落ち込むとは思わなかった。想像以上にひどい。
「仕方のないことだ。なにせ、白峰は彼女の故郷を滅ぼした、直接の原因になった極悪人らしいから」
 御調は黙って唇を噛んだ。普段、真紅の前では外していた団員証を手の中に握り込み、ぐっと握る。
白水の、桂順(けいじゅん)。
 かつて白峰の水途支部に在籍していた、力の強い白徒である。
 そして同時に、真紅の故郷を滅ぼす原因を作った、とんでもない白徒だ。
 彼は擬獣の討伐に赴(おもむ)いて村人を虐(しいた)げ、擬獣を嬲(なぶ)り殺し、擬獣の頭目に嬲り殺された。
 擬獣はそのまま村を襲った。生き残ったのは真紅だけだったという。
 そうして彼女は半谷一座に拾われ、今に至る。
 そういった経緯を、御調は早い時期に半谷一座の座長・染葉から聞いていた。
 ――あなたは白徒でしょう。できれば、真紅には近づいてもらいたくないのですが。
 やんわりと、しかしはっきりと言い放った座長の顔が思い起こされる。
 ちっとも笑っていない目で、じっと御調を見つめていた。傍に佇む、表情の乏しい副座長と同じように。
 ――あの子は白峰と白徒が嫌いなのです。私たちはあの子をまた傷つけたくない。
 そうして聞いた、彼女の過去。
 白峰に在籍して五年の御調も知らない白徒の名に、最初は作り話かと思いもした。
 だが、筝雅に確かめたその名は、二度と口にしてはいけないと禁じられた。
 そのあとで教えられた桂順の人となりはひどいものだった。
 理由もなく他人を虐げる。脅す。騙(だま)す。暴力をふるう。あやかりたちに対してもその粗暴さは変わらず、自分が楽しむような無益な殺戮も楽しんだ。禁止されている、依頼主への不当な報酬の要求さえも頻繁にあった。
 そしてそれらを本部の目の届かないところで行っていたというのだから、始末に負えない。
 死んでからも彼の汚名による影響を恐れた白峰本部は、彼の名を白峰から除籍。その歴史から抹消した。同時に、その事件をなかったことにした。民衆を守るべき白徒が民衆を虐げ、揚句にあやかりに嬲り殺されたと知ったら、白峰の信用は失墜する。組織のために、上層部はその決断を下したのだ。
 ちょうどその頃、本部に籍を移した御調が桂順も事件も知らないのも無理はない。だが、白徒が顔見知りの人間に被害を及ぼしていたということは、御調にとって衝撃的なことだった。
「市民を守る立場でありながら……情けなく、申し訳ないことです」
 知らされた想像以上の事実に、御調は愕然(がくぜん)とした。
 これが、自分が誇ってきたものの正体。
 輝かしい表舞台の裏に隠されたもの。
 自分は今までその表部分だけを見て憧れ、誇りを持ってきたというのか。
 その煌(きら)びやかな舞台の、いかに薄っぺらいものだったことか。
 そしてそれを知っていながら、真紅の思いをくみ取ってやることができずに、さらに傷つけてしまった自分に対する嫌悪感があった。どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと、今さらながらに悔やまれるが、口から出てしまった言葉はもう取り消せない。
「気にすることはない。本部は自己防衛のためにやっているのであって、それは大きな組織ではなんらおかしなことではない」
「では俺は……俺たち白徒は何のために存在しているのですか。……俺はそんな、くだらない組織保守行動のために白峰にいるつもりはない」
「あやかりの害から人々を守るためにあるんだ、決まってるだろう」
 まっすぐな朱玉の視線が、怒りと戸惑いに打ち震える御調を射抜いた。体の中心を突き刺すような、苛烈(かれつ)な視線だった。
「勘違いするな。お前が白峰を嫌悪する気持ちと、人々を守りたいと思う気持ちは全く別のものだ。上層部の罪が暴かれたからといって、白峰が今までに積み上げてきた信頼がなくなるわけではない。混同するな。今まで行ってきた討伐や依頼のほとんどは実際に行われてきたことなのだから」
「……はい」
 いつの間にか、胸のあたりの布地を掴んでいた手がようやく離れた。皺(しわ)になってしまったそこを簡単にのばしながら、御調は先ほどよりはいくらか落ち着いている自分がいることに気づいた。
だが、冷静になればなるほど、御調の中である疑問が浮かんで離れなくなる。
 ならば、真紅はどうなるというのだ?
 白峰に人生を壊されてしまった真紅は。
「……なあ御調。前から聞きたかったのだが、お前真紅をどう思う」
「どう、とは?」
 御調は躊躇(ためら)いがちに首をひねった。質問の概要がわかりながらも、その詳しい中身を掴み切れない。真紅は真紅だ。
「その通りさ。私の記憶が確かなら、お前はあまり女子供が得意ではなかったはずだ。他の団員に任せてばかりだった。しかし今回、真紅のことはよく気にかけているじゃないか」
 御調はぱちりと一度だけ瞬きすると、唇を軽く噛んだ。何か言いたそうに、けれど何も言わないまま沈黙を保つ。
 それをいいことに朱玉は、自分で考えたことをつらつらと挙げ連ねていく。いろいろ言っていれば御調が何かに反応するだろうと思ってのことだろう。
「助けてもらったからか? それとも真紅が白峰嫌いだからか? まさかとは思うが――真紅に惚れたか?」
 私は別にそれでもいいが、と半ば本気で言うと、さすがに御調も顔を赤くしてこちらを睨(にら)んできた。
「確かに……彼女のことを気にしてはいます。今までにない相手ですから」
 そう言うと御調は猫背になって俯き、両手を体の前で組んだ。
「俺は、今まで白峰が正しく、偉いものだと思っていました。自分では、そんなことはないと思っているつもりでしたが、真紅との口論で……やはりそう思っていることがわかったんです」
 ぽつぽつと自分の考えをまとめるかのように御調は話した。
 数少ない国家機関である白峰。
 仕事に行く先で白峰の名を知らない者はなかなかいないし、白峰に属しているというだけで、憧れの対象にもなる。ひとたび白峰と知れれば、自分を見る人々の目つきも違ってくる。
 驕(おご)っているつもりはなかった。国家機関とはいえ、白峰は他の組織となんら変わらぬ組織であり、良いところだけでなく悪いところも確かに存在していると。
 しかし、真紅との口論でそれが違っていたことがわかった。
 いくら上辺で否定していても、心の奥底ではやはり白峰を誇りに思い、社会の上位につけたがる己がいた。
「白峰は人々の尊敬と憧憬(どうけい)の対象で……それが当たり前だと、いつの間にか心のどこかで思っていたんです」
 だから実際に、真紅が白峰を嫌い、拒絶したときはとても驚いた。そんなことがあろうとは、思ってもいなかったのだ。
「白峰には情があるから仕方がないと言われればそれまでですが……自分がどんなに器の小さい人間かを思い知らされた気分です」
「別に悪くはない。自分の所属する組織を過大評価してしまうのは当たり前のことだし、考えが一辺倒になってしまうのもよくあることだ」
「……はい」
 ですが、と御調は再び口を開く。
「俺にとっては正義であることも……真紅にとっては、それが悪なんですね」
「白峰が嫌になったか?」
「いいえ、まさか。それとこれとは違います」
 ただ、と御調は呟く。その目にあるのは、炎狼山出身者特有の、どこまでもまっすぐな光だけだ。
「自分が知らぬうちに、守るべき庇護対象者の苦痛となっていた。俺はそんな自分が許せないのです」
「……例え、お前がそうであろうとなかろうと、彼女の苦痛がなくなるわけではない」
 人間は常に一人だ。
 近くに何人もの人間がいるけれど、それは自分自身ではない。完全に分かり合えることなどできない。自分自身さえ完全に理解することができないのに、どうして他人を完全に理解できるなどと思うのか。
 自分の身に起こったことは全て、自分で解決するしかない。他人に解決してもらうこともできるが、それでは自分のためにならない。
 真紅は今まさに自分の力で解決しようとしている。理解しよう納得しようと思い、もがき苦しんでいる。それはとても苦しいことだ。だが、そこで誰かが手を差し伸べてはいけない。
 生まれたての仔馬が自分で立つように、卵の中の雛が自ら固い殻を割って出てくるように。
 信じて待たなければいけない。それはとても歯がゆく、時間のかかることだけれど、自分たちには見守ることしかできない。
「だからお前が代わりに彼女を支えることはできないよ」
「……わかっています」
 指摘されて、少し拗ねたように御調は返事をした。気もそぞろだったが、仕事を続けなければならない。新しい資料を机に広げる。
「それで、資料の方は? 見つかったか?」
「いえ、全く。本当にこの中にあるのですか?」
 机の上に山積みされているのは、去年と今年の擬獣数統計である。それぞれの地域の擬獣の数の推移を見比べ、不自然な減少があれば、水途に移動してきた擬獣たちの故郷かどうかを判断する。しかし、今のところそれらしき物は見つかっていない。地域によって細かく分けられているため、見比べるのも難しい。同じ群れが別々の地域で数えられている場合もある。このままだと、まだ何か月もかかりそうである。
ただでさえ、擬獣は大陸のどこへ行っても見るあやかりである。大陸の東の端にある水途は州境も遠い。擬獣は州境を超えるほどの長距離の移動は滅多にしないため、彼らが白水のどこかから来たのであろうことは推測できる。
 だが、それ以上はわからない。
「うーん。ないというのなら、もう他州の資料を借りてくるしかないな。あまり他州から長距離を移動してきたとは考えにくいが……」
「擬獣はどこにでもいますから、元の住処の特定ができませんね……。ああそういえば、真紅の故郷の滅亡は、巨大な擬獣が直接の原因だったと聞きましたがどれくらい大きかったんでしょうね」
「……あ?」
 くっと眉根を寄せ、何かを思い出すかのように、朱玉は口を開けたまま天井を見つめた。
「……今なんて言った?」
「巨大な、というくらいだから擬獣の大きさはどれくらいだったんでしょうね?」
「違う。その前」
「真紅の故郷が?」
「そうだ、それだ! そこの資料を出せ!」
 勢いよく命じられ、慌てて山間部の資料を手に取る。指定されたのは、湖(こ)水(すい)村。確かここは、候補から除外されていた地域のはずだが。
 分厚い資料の束を渡すと、朱玉は勢いよく頁(ページ)を開いて顔を突っ込むように読み始めた。
「……盲点だった……」
「どうかしましたか?」
「ここだ。ここだったんだ」
「はい?」
 意味が分からず、首を傾げた御調に、朱玉は力なく開いた頁を示してみせた。
「あの時、あそこの群れは全滅したと思っていたからここは除外していた。でも違った。あいつらはここから来たんだ!」
 御調は目を見開いた。視線の先にあったのは、紙の上に書かれた、たった一年でごっそりと減った擬獣たちの数。
「ああ、だから真紅がここに来た時に騒いだんだな! あいつらは自分たちの仲間を殺した村の生き残りを――真紅を追ってきたんだ! だからあの群れには確たる頭目がいなかったんだな!」
 御調は絶句した後、すぐに資料を放り出して、すぐ傍に立てかけてあった槍を手に取った。
「御調!」
「すぐ戻ります!」
 そういう問題じゃないんだが、と言いかけて、朱玉は代わりに大きな溜息を吐いた。
「青春するのは大いにいいんだけど、公私混同はやめてほしいな……」
「朱玉様」
 若干、呆れと諦めを含んだ目で御調を見送った朱玉の背中に声がかけられた。
「筝雅か。何だ?」
「報告です。製作者現場らしき家を突き止めたとのことです」
 すっ、と朱玉の目が真剣みを帯びる。
「あの中毒者が入っていったのか?」
「はい。他にも、中毒者らしき何人かと、一般人――これももう人皮の面を手にしている連中かもしれませんが――が入っていくのが確認されています」
 机の上に広げられた地図の一角、示されたそこを確認する。旧市街にある住宅街の一つだ。おそらく、外見は普通の民家と変わらないだろう。
「では、夜には突入できるように」
「わかりました、準備を整えておきます。御調はどうします?」
「……連れて行こう。もしかしたら、もしかするかもしれない。それと……」
 朱玉の視線は、地図に示された一軒の家に集中していた。どこかで聞き覚えのある場所だった。
「半谷一座に連絡を」


 寒さで目が覚めた。
 闇が訪れた暗い部屋の中、真紅は布張りの長椅子の上で横になっていた。
「ん、あれ……? あ、そうか……」
 見覚えのない部屋に首を傾げたものの、すぐに合点がいく。
 ニールの家に来たのだった。
 夕食をごちそうになり、世間話をしてニールが少し席を外したところで眠くなった。少しだけと思って目を閉じたのだが、思ったよりも長く眠ってしまったようだ。
慌てて起き上がり、周囲を見回す。
 起き上がった拍子に、体にかけられていた上着が床に落ちる。
 傍には火のついた灯りが置かれ、室内をぼんやりと照らしていた。
「ニール、どこ?」
 上着を拾い、きちんと畳んでからニールの姿を探す。まさかもう就寝したわけではあるまい。
 台所と食堂を兼ねた狭い室内に人影はなく、階上からも音はしない。
 ニールが死んだ絵の師である老人から貰い受けたというこの家は、手狭ではあるが、こざっぱりとしていた。古いがどこか落ち着く空間だ。
 郊外にあって静かなのもいい。波が水路の壁や、傍に停めてある船に当たってたてる、微かな音が窓の外からしていた。
 静かだ。
 一人きりで薄闇の中にいるというのに、ひどく落ち着いた。
 それはおそらく、この場に誰もいないからだ。
 ここでは、誰も真紅に何も言わない。責めない。見ない。
今だけは一人でよかったと思う。
 少し眠っただけで、驚くほど自分が冷静になったのを感じる。だが、不安は消えていない。
 少しずつ考える。
 自分は告げられた事実に対して、今、どのように行動すべきなのか。
「うーん……」
 かといって、何か思いつくわけでもない。
 真紅には、情報が足りなかった。
 考えていても仕方がない。
 こうなったら直接座長と御調に、疑問に思うことを根掘り葉掘り聞くまでだ。
 二人を前にすれば、今のこの気持ちにもきちんと答えが出るかもしれない。
 泣くかもしれないし、今よりもっと傷つくかもしれない。それでもこの気持ちを抱えたままよりはいいだろう。
「よし、帰ろう」
 善は急げとばかりに長椅子から立ち上がる。さすがにもう遅いし、そろそろ帰らなければならない。
 どんなことがあっても、やはり真紅の帰るところはあそこだった。それ以外には、考えられない。
「あれ、真紅。起きたのか?」
 ちょうどいいところでニールが戻ってきた。
 酒場に酒でも買いに行っていたのか、手に酒瓶と灯りを持っている。
「酒飲みたくなったんで、買ってきた。結構寝てたな」
「そんなに?」
「ああもう、ぐっすりとな。ひょっとして、あんまり寝れてねえ?」
 真紅は苦笑した。
「そうでもないわよ。きっと疲れてたのよ。このところ、街もすごい人出だから」
「かもな。もうすぐ祭りだからさ、舟流しをしようと思ってる人がどんどん来てるんだろ」
「ああ……確かに」
 例年、この祭りは最終日が一番の人出となる。最終日の夜に行われる舟流しの行事に参加するためだ。
 昔から、春の祭りの最終日に灯りのともした小さな紙舟を海に流すと、海の神が願いを叶えてくれると言われている。そのため、舟流しをしようと、あちこちから観光客が訪れるのである。
舟流しはもともと、海の神を祀る海南神宮のご利益にあやかろうと思ってのことだ。誰もが知っているほどの有名な商人から小さな子供まで、水途の住民全員が参加するといっても過言ではない行事である。
 大金持ちともなると、何十、何百もの紙舟を買い占めて一度に流すこともある。それはそれで綺麗だし、商人の懐具合を知るいい機会でもあるので、舟流しでの人々の楽しみの一つでもある。
「真紅は何お願いすんの? やっぱ恋愛? 好きだよね、女は」
 呆れたように言われて、真紅はむっとした。
 これから恋愛し、結婚して家庭を持とうと憧れる女性ならば、誰もが思うことだろうにその言い方はない。
「そう言うニールは? そんなことを言うくらいなんだから、恋愛なんかじゃないんでしょう?」
 意趣返しのつもりで意地悪く返してやると、ニールはあっさりと答えた。
「絵の完成さ、もちろん」
 意外というか当然というか、簡単に予想できたであろう答えに、真紅は溜息をついた。その様子をニールが笑って返す。
「そりゃあ、女の子にはもてたいけどね? 俺にはそれよりも叶って欲しいことがあるんだよ」
「それが絵?」
「そう」
 真紅は首を傾げた。作品の完成。それは彼にとって、舟流しの願い事にするほど重要なことなのだろうか。
「絵なんて、描いてればいつか完成するじゃない」
「あの作品にだけは妥協(だきょう)したくないんだ」
「こだわりってこと?」
 確かに、ニールは変に凝(こ)り性だ。舞台装飾でもいやに凝ることがたまにある。
「そう。なにせ昔からずっと描きつづけている絵だからね」
「昔って……どのくらい?」
 確か、ニールは白水の出身ではない。理由は分からないが孤児になって、そこを当時北部にいた絵の師に拾われたのだと、以前酒の席で聞いた。
 水途にやってきたのは、確か七年ほど前だったか。
「うーん、どのくらいだろ。師匠(せんせい)が俺を拾うずっと前から描いてるっていうし」
「は!? そんなに前から!?」
「そう、そんなに前から」
 師弟二代にわたって描きつづける絵とはいったい、どんな絵だというのか。
「なにそれ。いつ完成するの。っていうか、完成するの? させる気あるの?」
「当たり前だろ。仕事を抜きにすれば、そのことばっかり考えてるようなもんなんだから俺は」
「そ、そこまで?」
 滅多に見ないニールの真剣な表情に、真紅は驚きを隠せなかった。いつも面倒くさそうにしているこの男が、何かに真面目に取り組むなど、あまり想像ができなかった。
「ただ、さあ。あんまりうまくいかなくて。濃すぎてもだめだし薄すぎてもだめだし、力加減っていうの? あれも難しいし、いまいちなんだよね、最近」
「ああ、スランプなのね」
 スランプ。やることなすことうまくいかず、にっちもさっちもいかなくなることだ。
 役者にもそういったことはある。真紅はまだその感覚すらわからない。せいぜい、うまくいったか失敗したかの違いが分かる程度のものだ。しかしそれは、どんなに長くやっている大俳優にもあることだと聞く。
「どうも最近ね……いろいろと試してはいるんだけど、なんでかなあ」
「ふぅん……」
 ニールがそこまで気にする絵とは、いったいどんなものなのか。ふと、純粋な好奇心がわいてきた。
「ねえ、ニール。それってこの家にあるの?」
「うん? ああ、あるよ」
「よかったら見せてくれる? 他人の目から見て何か助言できるかもしれないし」
 絵に関しては素人(しろうと)故に、何も助言できない可能性の方が高いが、真紅はとりあえず言ってみた。
 いつも助けてもらっているニールの手助けをしたいと思ったのもあるし、なにより、彼がそこまで執着する絵を見てみたい。
「あー、でももう遅いかなあ。嫌なら別にいいんだけど……」
 ちらりとニールを見やると、くすくす笑っていた。何がそんなにおかしいのか。理由のわからない真紅の表情は、むっとした不機嫌なものになる。
「いや、いいよ。別にどうというわけでもないし。そっちが明日の早起きを気にしなければな」
「いいの? やった!」
「ああ」
 珍しく頭を撫でられたこともあり、真紅はわくわくしながら、この師弟の絵について思いを馳せた。
「……真紅」
「ん?」
「ありがとな」
「え、うん。何が?」
 問いかけるも、ニールは僅かに嬉しそうに微笑んで答えなかった。


「こっちこっち」
 ニールに手を引かれるまま、真紅はニールの自宅の地下階段を降りた。地下とはいえ、さすがに海が近いためか、潮の臭いがする。水途のこうした地下室の多くは壁二、三枚で海に出るため、定期的に修理・改装しないと長持ちしないのだという。
 空間が限られているので、階段は狭く、急だ。毎日通っているのか、ニールの足取りは迷いなくすいすいと動いている。灯りはニールが手に持つ一つきりで、少し先はもう何があるのか見えないほど暗い。
 そんな中、ぐいぐいと手を引かれて進むのは、かなり怖い。
「ちょ、ちょっと、そんなに引っ張らないでよ。落ちる、落ちるからっ」
 ニールは何故かとても楽しそうで、真紅を地下へと急かすのだが、真紅としてはこんな急な狭い場所で引っ張らないでほしい。落ちたらどうするのだ。
「あー、悪い悪い。今まで俺の絵を見たいって言うやつあんまりいなくて! それで嬉しくてつい」
「つい、で落下死したくないのよ、私は」
 一段一段慎重に下りていく。段の狭い階段は、ともすれば踏み外して、転がり落ちてしまいそうだった。
 ようやく視界に扉が見えた。
 分厚い木の扉は、階段と奥の部屋とを明確に分け、その扉の向こうにある景色を隠している。
 なにやら鼻につく薬品のような臭いもしだした。ニールが使っているという、外国の油絵の具の臭いだろうか。真紅は画材に詳しくないので、よくわからない。
 ぎぃ、と軋んだ音を立てて、ニールが扉を開けた。その向こう側は真っ暗で何も見えない。ただ、嗅ぎ慣れない何かの臭いがしている。
 促されるまま中に入り、ニールが灯火を部屋の燭(しょく)台(だい)に移してくれるのを待つ。しかし、本当に暗い。灯りをつけたとしても、明るさはたかが知れているだろう。いくつも灯りをつけるにしても、相当な数がなければならないだろう。そこにかかる金も相当な金額になるはずだ。こんなところでまともに絵が描けるのだろうか。
 室内の暗さに目が慣れてくると、すぐ向こうにまた扉があるのがわかった。壁に沿って甕や木箱が置かれている。どうやらここは物置として使用しているらしい。
 おかしいと思ったのは、まだ室内が暗いままニールが扉を閉めた時だった。
「ニール?」
 室内の暗さに嫌な予感を覚えて、真紅は振り返った。視界に映るニールの表情は、灯り一つしかない薄闇の中でもよく見えた。いつものように、人懐っこい笑顔を浮かべている。
 こんな暗くて、いかにも何か出てきそうなほど恐怖を感じる場所なのに、どうしてそんな風に笑えるんだろう。
 ぞわりと背筋が寒くなる。
 怖い。
 真紅は初めて、ニールにその感情を抱いた。
 場所のせいかもしれない。
 暗さのせいかもしれない。
 なんだろう。
 怖い。
「ここに来たがって、自分から来たやつはたくさんいるけど」
 ニールが微笑む。その笑顔がまたどこか、恐ろしい。
何かがおかしい。
 ニールはこんな笑い方をする人間だっただろうか。
「ここに自分で連れてきたやつは初めてかもな」
 一人ごちながら、ニールは真紅の肩を掴むように抱き、さらに奥にある扉を開け放った。
 そこも暗かったが、何かが動く音と呻き声のようなものが聞こえた。誰かが、そこらに何人もいる。
扉の鍵を閉めたニールが、今度は手早く灯りをつけてくれたので、真紅はすぐにその音の正体がわかった。
 だが、それは到底直視し、受け入れることのできるものではなかった。
 それは何人もの、もがき苦しむ人間だった。しかしその様子は尋常ではなく、全員一様にぼんやりとしているか、何かわけのわからないことを呟き続けているかしていた。
 床に全身を投げ出し、どんよりと濁った眼で天井を見ている者。
 焦点の合っていない目でぶつぶつと、何かをとめどなく呟き続けている者。
 がりがりと己の腕を爪で引っ掻いて自身の指と爪を血で染めている者。
 全員、精神異常があると思われる、そんな人々ばかりがそこにいた。
 真紅はその中に、昨日の午前中、真紅たちの前に現れた狂人がいるのを見た。
 何故ここにいるのかはわからない。拘束されているわけでも、部屋に鍵がかかっているわけでもないのに、抜けだそうともせずに全員ここにいる。
 彼らは年齢も性別も背格好もまるで違っていた。働き盛りと思われる、若い男。一目で金持ちとわかる豪華なドレスに身を包んだ老婆。見覚えのある商店の制服を着た中年の男。
その中に、真紅は閉店した馴染みの店の主人がいるのを見た。彼は壁に寄りかかってだらりと座り、焦点の合っていない目でぼんやりと天井を見上げていた。煙草にも博打にも手を出さない堅実な人だったのに、一体どうしてしまったのだろう。
「に、ニール、これ……」
「びっくりしたか?」
 怯えて震える真紅とは対照的に、ニールは何事でもないかのようにくすくす笑う。
 この状況を目の当たりにして、どうして笑っていられるんだろう。
 これは、本当に自分の知っているニールだろうか。
「ここにはな、俺の“絵”を欲しいってやつが集まるのさ。なんとしても自分の能力を高めたいってやつが。なのに、重傷中毒者は呼んでもいないのに、いつのまにか入り込んでここにいやがる」
 絵。
 室内を見回しても、どこにもそれらしき物はない。
 室内にあるのは、壁にかけられた様々な仮面だけ。
 真紅が舞台で着けるような飾りがたくさんついた派手なものから、普段づけ用の質素なもの、武具の面頬(めんほお)もある。だが、一番多いのは真っ黒な、質素な仮面だった。見たことのあるものだった。
ここから考えられるのはただ一つ。
 ニールが完成を渇望しているものは、真紅が考えているようなものではなかったのだ。
「“絵”って……」
「ん?」
 ニールの表情はあくまで優しく、いつもと変わらない。いつも一座で、皆の前で見せていた表情だ。
「仮面?」
「そう。でもただの仮面じゃない」
 わかるか? と顔を覗き込まれ、真紅は顔逸らした。今のニールと目なんか合わせたくなかった。
 仮面。
 黒い。
 見覚えのある形状。
 薬品のような臭い。
 たくさんの狂人たち。
 思い出されるのは、ニールの言葉。
 何をしてでも完成させたい絵。
 力加減の難しい絵。
 完成できない絵。
 黒い仮面はあの時、石畳の上に落ちたものと同じ。
 御調はあれを何と言っていた?
 頭に、御調の微かな声が甦(よみがえ)る。
『人皮の面だ』
「……人皮の面?」
 震える声でそう告げると、ニールは嬉しそうに微笑んだ。
「正解」
 ニールの手がするりと真紅の肩を離れ、もう片腕と共に大きく広げられる。
「ようこそ、俺の秘密の工房(アトリエ)へ」
 狂人たちの悶絶する声を背後に微笑むその姿は、とてもこの国一番の禁制品の作成者には見えなかった。


「いない……」
 御調は肩で息をしながら、最初にやってきた半谷一座に戻ってきた。
 真紅のいきそうな場所、特に人気のない場所を探したが、真紅の姿は見当たらない。ここまで来ると、真紅はもう一座に戻っているのではないかと思えてくる。それで一番最初に来た劇場に戻ってきてみたのだが、やはりそこに真紅の姿はなかった。
 真紅がいなくなってから大分経つ。
 夜も更け、酒場と歓楽街以外は静かになりつつある時間。そんな時間まで戻らない真紅のことが気になって仕方がない。
 何かあったのか。
 誰かに襲われたのか。
 それとも、もう二度とここには戻らない気なのか。
 頭には悪い予想しか浮かばない。
 もし、あの不安定な状態のまま、誰かが真紅の手を取ったら。
 彼女はその相手について行ってしまうかもしれない。
 そうして、二度と御調たちの前に姿を現さないかもしれない。
 いいや、それよりも今多発している死体遺棄事件に巻き込まれていたなら。
 考えるだけで嫌だ。
 それが自分にどういった感情を呼び起こすのかをわかっているから、尚更。
 真紅という人間がこの世から、御調の前から永久に消え去ってしまったことの恐怖と悲しみ。そして永久に埋めることのできない、胸に開いた空虚な穴。
 それがいかに恐ろしいことか、御調はよく知っている。
 父親が死んだときに、嫌というほど学んだ。
 死んでも心は近くにいる、などというけれど、そんな綺麗事で片づけられることではない。
 ただ、悲しいのだ。
 寂しいのだ。
 心のどこかにぽかりと穴が開いたような感覚がする。
 それが喪(うしな)うということだ。
 その穴は誰にも、何にも埋めることはできない。
「御調、戻ってきたか」
 一座の人間にもう一度話を聞こうと、扉に手をかけた瞬間、扉が内側から開いて上司が顔を出した。珍しく団員証を着け、帯剣している。
「真紅はまだ見つかってないんですか!?」
「まだだ。それより、お前には緊急出動命令が出されている」
 緊急出動命令と聞いて、御調の眉がぴくりとわずかに反応した。水途で、今の状況での緊急出動というと。
「人皮の面ですか」
「そうだ。この前の中毒者の後をつけて、やっと制作場所の特定ができた。わかったらお前も現場に向かえ」
「いえ、すみませんが俺は――」
「聞け。お前のためにもなることだぞ。ちょっと場所が衝撃的だけどな」
「衝撃的?」
「ここの座員、そう、お前も知っているかもな。ニールガイの家さ。……ついでに言うと――真紅とは限らないが――そのくらいの年頃の若い女が、夕方そこに入っていったっていう報告もある」
筝雅の言葉に御調は声を失い、口を開けたまま、その場に立ち尽くした。
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