水都狂面譚

二、異常な日常

 半谷一座の朝は早い。
 公演は午前中に二度、二種類の演目が行われる予定だから、早く起きて早く準備をしなければならないのである。
 そうでなくとも、劇場で寝起きをしている真紅や香榛は朝食の準備に洗濯、食料の買い出しに劇の練習までしなければならない。まだ暗いうちから働くのは大変だが、慣れた。半谷一座に来てから二年も経つから、体が次は何をすべきか、覚えてしまっている。今日は朝一番に月海の家に行ってきたから、やることの手順が少しずれてしまったが、仕方ない。
「ねーえ、真紅? 月海の家にいる怪我人ってどんな人? 若い男の人なんでしょ?」
 朝食に使った食器を洗っていると、隣で同じ作業をしている香榛に質問をされた。彼女がどんな回答を期待しているのかはわからないが、とりあえず知っていることを口にしてみる。
「えーっと、年は二十三から五くらいで、美形というよりは男らしい人。割と筋肉があって背も高め。あと髪と目が群青色」
「群青?」
「そう。珍しいわよね」
「水途ではね。王都の方に行けば珍しくもないわ。あっちでは白水の地元民のように、黒か茶色の髪と目の方が、統一性があってつまらないそうよ」
 真紅は、髪は黒いし、目も茶色がかかっている。典型的な白水の人間だ。水途ほどの大都会に来ると、金の髪や青い目もそう珍しくはないが、少し郊外に行けば彼らの持つ色合いはひどく地味なものになる。
「王都だと、銀の髪の人が多いって聞いたけど……本当?」
「さあ。でもその隣の炎狼山では、赤や紫の髪の人もいるわ。もっと西の方に行けば肌の色も違う人がたくさんいるみたいだし、まあ、何色の人間がいてもおかしくはないわよね」
「ふうん……」
 真紅は水途で暮らしている中で見たことのある人間の色を思い出した。
 髪の毛は金に茶色に黒。色の濃淡も様々だし、時折緑や桃色の髪をしている人もいる。目の色は髪の色よりも種類が多くて、青に緑に紫、赤、茶、黒。肌の色は白か褐色が多いが、時折上質な土のように黒い肌の人間もいる。
 中には、そういった毛色の違う人々を集めた雑技団や劇団もあると聞く。半谷一座で毛色が違うといえば、香榛とニールくらいのものだ。香榛は外国人の血が入っているし、ニールは外国との交流が最も盛んな北部の出身である。
 真紅は白水以外の土地には行ったことがないが、そのままでもいいと思っている。特に現状に不満はない。
 真紅にとっては、半谷一座で今のままの暮らしを続けていくことが一番の望みだった。
「さてと! 今日あたりから本格的にお客さんも多くなると思うから、気合い入れていかないと!」
 最後の一枚を拭き終わり、香榛は背を逸らして大きく伸びをした。
「ああ、そうだ真紅。その男の人、あわよくばうちを手伝ってくれないかしらね?」
 団員の数が少ない半谷一座ではこの時期、人手はむしろ足りないほどだ。荷稲に治療してもらったことにかこつけて、手伝わせようとしているのだろう。隠そうともしていないところがいっそ、気持ちいい。
「さあ。怪我が酷いし、難しいんじゃない?」
 月海の家での様子を思い出してみる。胸から腹にかけて負った傷。痛みで起き上がることも難しい体なのに、一座の雑用を手伝うなど無理だろう。
「そんなに酷いの? その人の傷」
「うん……平鮫にやられたっていうし。あまり動かない方がいいんじゃないのかな……。ああでも、ちゃんとした病院に行かないと」
 今日の午前中にはインサ先生も御調を看てくれるだろう。なんといっても、急患なのだ。
 大体、怪我人なのだから怪我を治すことに専念するのが当然だろう。
「うーん、でも見栄えのする人が宣伝時にいた方がいいのよねー。昼間の海南広場なんていろんなところが宣伝しに来てるだろうし」
 毎年祭りの何日か前から行うのが、水途一大きな広場である海南広場での宣伝行為だ。各団体が、様々なやり方で自分たちの店や劇場などを宣伝していくのだが、人々の注目を集めるのはなかなか難しい。すぐ近くで、他の団体も同じことをしているからなおさらだ。
 一番簡単なのは、派手に着飾るか珍しい毛色や綺麗な顔の人物を連れていくかだ。そうすれば嫌でも目立つ。
「……どうしても、行かなきゃダメ?」
 正直に言うと、真紅は宣伝があまり得意ではない。舞台ではないところで着飾ったり演技をするのは苦手だった。
「当たり前でしょ。あたしは脇役だけど、あんたは主役なんだからいないと意味ないじゃない。めいっぱいおめかししていかないと」
 真紅はげんなりした。ただでさえ、ああいったことは得意ではないというのに、強制参加とは。
「それに、うちはまだまだ小さい劇団なの。こんな時にでも存在をアピールしておかないと、この先が大変よ」
「うん……わかってるんだけど」
 半谷一座は団員十一名の、小さな劇団だ。人数が少ないから、衣装や道具担当の者でも舞台に立ったりする。真紅も元々は衣装や小道具を作っていたのだが、そのうちに舞台の上での活躍が評価され、今に至る。
 今は祭りが近いからそんなこともないが、いつもはこんなに何度も公演できるほどの金はない。どこかの地方や団体から依頼されて公演を行うことはあるが、交通費や食費と差し引きするとほぼ残らないことも多い。そのため、こういった機会ではなるべく稼いでおかなければならないのである。
「そうでもしないと、この先稼ぎが減った時にはあたしたち全員路頭に迷」
「あーもう! わかったわよ、行けばいいんでしょ、行けば……」
 渋々了解し、真紅は準備を始めた。
 実際に向かうのは正午近く、人出が多くなってからだが、準備をしておくのは早い方がいい。午前中にも公演はあるし、その時間になってみなければわからないこともある。そもそも、劇場外に住んでいる他の団員たちだってまだやってきていない。
「ういーす。何の話?」
 タイミングが良かったのか悪かったのか、勝手口を開けて会話に入ってきたのはニールだった。
 水途の旧市街に自宅を持つニールは、毎日ここに通ってきている。座員の半数が劇場に寝泊まりしている半谷一座では珍しいことだった。
「ちょうどよかった! あんたも行ってきなさいよ、ニール」
「え? どこに?」
「海南広場での宣伝」
 次の瞬間、ニールの表情が絶望で凝(こ)り固まったのは言うまでもなかった。


 何か物音が聞こえた気がして、御調は目を覚ました。
 起き上がろうとして、胸部から腹部にかけて走る痛みに顔を顰(しか)める。まだあまり動けそうにない。
「おいおい、いい様だな、御調」
 ひょい、と視線の先、戸口で顔をのぞかせたのは見知った男だった。短い灰色の髪に、深い緑の目。御調と同年代に見えるが、その内面は自分などよりもずっと年上であることを、御調は知っていた。
「筝雅(そうが)、様……」
「噂を聞いて来てみたら、本当に怪我して寝てやがる。そんななりになっておきながら、よく一人で行こうと思ったな」
「……返す言葉もありません」
 再び床に寝そべり、大きく息を吐く。
 そう、今回の件は自分の失態と慢心(まんしん)から来たものだ。たかが平鮫程度、自分一人で大丈夫だと。
「予想よりも向こうの数が多かったってことか。さすがにお前ほどの人間が数十匹程度の平鮫相手に負けるわけがない」
「言い訳になりますが……予想の倍はいました。やはり近年の斑紋(はんもん)鯱(しゃち)の減少で増えたようです」
 海で最も恐れられている平鮫だが、天敵がいないわけではない。彼らよりも体が大きいあやかり、斑紋鯱は平鮫の数少ない天敵だった。
 しかし、その斑紋鯱の数が密漁などを原因として減少したことにより、平鮫の数は増え始めている。
「斑紋鯱か……密漁がここまで深刻化していたとは、迂闊(うかつ)だったな」
「筝雅様……やはり、斑紋鯱の密漁の裏には人皮(じんぴ)の面が関わっているというのは本当なのでしょうか」
 人皮の面は、この華胥国において最も危険とされる特級禁制品の一つだ。何かというと、麻薬の類にあたる。製造・取引はもちろんのこと、所持も関わることすら禁止されている。
 そしてこの奇妙な仮面は、原料の一つに、斑紋鯱の体液を必要としていた。そのため、昨今の斑紋鯱の密漁にはこの仮面の作成者が関わっているのではないかと、専(もっぱ)らの噂だった。
「ここまで来ると可能性は高いな」
筝雅は御調の言葉を否定しなかった。だが、それは恐ろしい肯定だった。この賑やかな水途の裏に潜む濃い影の存在が、くっきりと浮き彫りになった瞬間だった。
「中毒者の中には、人皮の面を手にするためなら何でもするやつも少なくない。漁師の中にも何人かいるだろう。もちろん、平鮫と斑紋鯱の数を誤魔化して報告している役人たちの中にもな」
「はい……」
 頷き、御調は疲れたように息を吐いた。
 この水途に巣食っている闇は、思いのほか深いようだ。
 だが、それを少しでも取り除いていかねばならない。
 それが、今の自分に与えられた役目だった。


「ぷはっ」
 月海は水面から顔を出した。ようやく得られた新鮮な空気に、体中が喜びの声を上げる。そのせいで性急に空気を吸い込んでしまい、むせる。
 自分の小舟の縁に手をかけて咳き込み、落ち着いてからようやく目の前に広がる海に視線を向ける。
 今朝、怪我人を放り出してここへ来たのは、昨夜の男の件で、平鮫が近海をうろついていないか調べるためだった。もし、平鮫がまだ彼を狙って近くに留まっているのなら、早急に漁業組合に連絡しなければならないからだ。このあたりでは素潜り漁を行う者もいる。もし襲われでもしたら大変なことになる。
 だが。
 月海は訝しげに眉根を寄せた。
 平鮫の一匹や二匹を覚悟してやってきた海は静かだった。
 視界には海と、夏場に使用する無人の家屋しかない。風もなく、水面下でこれといっておかしなこともない。覚悟していた平鮫もいない。人の影もなく、休業期間である祭りの準備期間に早朝の海に出ているのは、月海くらいのものだった。
 だが、何かがおかしい
 月海は本能的に、この静かな海が自分のよく知るものとは違うことを悟っていた。
 何が違うのかは、月海自身にもよくわからない。
 ただ、自分がこのような印象を持つときはろくなことが起こらないことは知っていた。
「何だ……? 何が起こる……?」
 それとももう、起こっているのか。
 どこか不吉な予感を抱えながら、月海は小舟に自身の体を押し上げた。


 思いがけない来訪者があったのは、翌日の午後になってからだった。
「真紅、客」
「え?」
 公演の合間に食堂で休憩していた真紅を呼びに来たのは、ニールだった。
「誰? ひょっとして月海?」
 もしかしたら、月海があの怪我人のことでなにか伝えに来たのだろうか。
「いや、知らない男。知り合いじゃないのか?」
「って、言われても……あ」
 勝手口の隙間から、劇場の裏手にいる客の姿を覗(のぞ)き見る。
 知った顔だった。しかも、つい最近に知ったばかりの。
 群青。名前は確か、御調。
 椅子代わりの低い石壁に腰掛け、ぼんやりと空を見上げている姿は確かに、月海の家で臥せっているはずの男だった。
 まだ傷もよくないだろうに、外に出ていていいのだろうか。
 首を傾げながらも、急いで外へ出る。
 勝手口から出てきた真紅の姿を見つけて、男の表情がほころんだ。
「こんにちは」
「こんにちは……あの、大丈夫? まだ寝ていた方がいいんじゃあ……」
「それほど忙しい身というわけではないが、それほど暇な身というわけでもない。明日から書類整理でも手伝えと上司に言われている」
「へえ……それはまた……」
 真紅は驚きを通り越して呆れた。怪我人を働かせなければならないほど、人数の少ない職場なのだろうか。それともその上司がいやに厳しいだけなのか。
「でもまあ、元気そうでよかった。……それであの……何か用?」
「ああ、そうだった」
 少し顔をしかめながら――おそらくまだ傷が痛むのだろう――立ち上がろうとしたので、慌てて桜色の着物の裾を蹴立てて駆け寄り、その体を石壁へと押し戻す。
「まだよくないのに、動いちゃ駄目! いいから座ってて」
「……すまない」
 大人しく座り直した御調を前に、真紅は彼の顔をまじまじと眺めた。やはり、顔色はどこか血の気が失せているように見えて、具合も悪そうだ。こんな人間を職場に引っ張り出す、御調の上司も上司だ。
 真紅も隣に座り、普段よりは色が白いであろう、彼の顔を見上げる。こうして座っていても、御調の頭は真紅よりも高い位置にある。立って並んだことはないが、やはり背は真紅よりも高いのだろう。香榛のように外国の血が混じっているのかもしれない。
「で、それで何の用?」
「いや……大したことじゃない。ただ礼を言いに来ただけだ」
「ああ、なんだ、そんなこと? それなら私より月海や荷稲さんに言った方がいいと思うけど」
 外見通り、律儀な男だ。まだ具合の悪い時にわざわざ来なくてもいいものを。
「あの二人には言った。だから真紅にも言っておこうと思ってな」
「それはわざわざどうも。それより、病院には行った? ちゃんとした医者に診てもらわなきゃだめよ」
「ああ、それは大丈夫だ。気にするな」
「行ったならいいけど。いくら仕事とはいえ、平鮫に向かっていくなんて無謀にもほどがあるわよ。これに懲りたら気を付けることね」
「肝に命じておこう」
 嘘くさい。
 全く堪(こた)えていなそうな御調の顔を見つめて、真紅はそう思った。
 この男の真面目そうな性格からしても、上司から命じられればまたやりそうだ。そうでなくとも、怪我人を出勤させようとする職場なのだ、再び御調に任せる可能性は高い。
 本当だろうかと、真紅は御調の顔から腹までを訝(いぶか)しげに眺めた。本人は平然としているが、彼の着ている渋緑の着物の胸から腹あたりは包帯を巻いているせいか、やはりどこか厚い気がした。
「……次がないことを祈っておくわ」
 その言葉について、真紅はこれっぽっちも信用していなかったが、とりあえずそれだけを言っておいた。
 どうしてあの男は自分を大事にしないのだろう。もう少し気を付けてくれた方が、周囲にとってもいいだろうに。
 どこかもやもやとした気持ちのまま劇場内へ戻ると、香榛がにやにやと嫌な笑みを浮かべていた。
「いやぁ、いいわね。青い春ね。春まっしぐらね」
「違うから。やめてよ」
「あたし、日頃から思ってたの。真紅、ズバリあんたには色気が足りないわ。恋をしなさい。そうしたら色気も出るはずよ!」
「今それ、関係ないでしょう!」
「あるの! あんたに色気が出ればお客も増える! はず!」
「鮮紅姫に色気なんかいらないでしょう! 狂ってるのに!」
「狂ってるのに、そこに色気が見え隠れするのがいいんでしょうが! ツボなんでしょうが!」
「変なこと言わないで!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぐ真紅と香榛の口論は、二人が荷稲に怒鳴られるまで続くことになるのだった。


「ああ〜、頭痛い……」
 荷稲にぎりぎりと頭を掴まれた痛みが、まだ残っている。午後の公演に響かねばいいのだが、確実に残りそうだ。
「自業自得だろ」
 隣で作業をするニールは取り合ってもくれない。手元の小道具の、剥げた塗装を塗り直すのに夢中だ。絵描きの卵である彼はこういうことが得意なのだ。器用なので、時折小道具も作る。真紅が舞台で使用している仮面も彼の作品だ。
「ひどい。荷稲さんの、痛いんだよ」
「知ってる。何回も食らってるし」
 公演中の現在は、上演中の舞台以外、静かである。今は『鮮紅姫』とは正反対の喜劇を上演しており、出演をしない真紅やニールは暇なのだ。とはいえ小道具や大道具の修理、買い出しに客引きなど、やることは多い。
「おーい、そこの暇人たち」
「誰がですか」
 からかい交じりに声をかけてきたのは香榛だった。どうやら、今回の劇での出番は終わったらしい。まだ胸元の大きく開いた衣装のまま、床に座っている二人の横に立った。
「荷稲さんが買い出し行ってきてーって。夜になって人が増える前に」
「えー、あの人の中をかよ」
「広場で宣伝して来いっていうのと、どっちがマシ?」
「買い物に行かせていただきます」
 ニールは即答した。客寄せというのは意外に難しいもので、この時期は祭りに向けてどこの劇団でも同じことをやっているから、目立つのも難しい。さらに言えば、広場は最も人が集まるところだ。そこで下手な宣伝行為をして来場客数が増えるどころか、同数あるいは減ってしまうと、荷稲に頭をぎりぎりされるのは間違いない。
「いい子ねー。はいこれ」
 手渡された一覧を見て、ニールは呻いた。
「多くない?」
「思ってたより、倉庫に物がなくって。昨日荷稲さんが怪我人の手当てをして包帯なんかも切れちゃったし」
「ちぇっ。真紅、どうやらお前は今日、厄日みたいだぞ」
「そうね。ああついてない」
「ま、そういうことだから、さっさと行ってらっしゃい。特に真紅、あんたは次の演目には絶対出なきゃいけないんだからね」
 早く早くと急かされて、二人は渋々半谷一座を後にした。


「重い……俺圧死するかも」
「馬鹿ねえ、今持てる重さのもので圧死できるものなんかないわよ」
「もしくは、帰る途中でこの板を損なって荷稲さんに頭を握りつぶされるかだ」
「大げさよ。気持ちはわかるけど……」
 買い出しからの帰り道、劇場までの道を辿りながら、真紅は腕に抱えた荷物を持ち直した。
 思ったよりも時間を食ってしまったのは、馴染みの商店が閉店してしまい、少し遠くの店にまで行っていたからだ。それほど悪いとも聞いていなかったのに、店の主人が病気で亡くなったのだという。
そういえば、最近は不景気なのか、あちこちの店が閉店になっている。今歩いている通りでも、いくつかの店がその扉に閉店や貸店舗の札をかけていた。買い出しに適した店があまり遠くなるようなら、買い溜めも考えなければならない。そうなると、今抱えている量よりも多くなることは間違いないだろう。
「重い……肩外れそう」
「そしたら嵌(は)めてあげるから、そのまま一座までそれ運んでね」
 ニールが肩に担いだ石材は重く彼の肩に食い込み、脇に抱えた木の板は軽いが、地面に擦(こす)れそうなほど大きくかさばる。
 真紅が抱えているのは布の塊と医薬品の類だったので軽かったが、やはり量があったのでかさばった。
 いずれも舞台で使用する物や材料、劇場の修復などに使うものだ。確かに必要なものではあるが、いくらなんでも一度にこの量はないだろうと二人は不満を言い合った。
「ああ、持ちにくい! 何でこんなに一度に言ってきたんだろう。後日でもいいじゃない……ひょっとして、昼のことが原因かしら」
「かもな。あれ? でも俺は関係ないんじゃねえ?」
「……ニール、面倒事を押し付けられるようなことをしでかした記憶は?」
「………………ある」
 ぽそりと小さな声でニールは肯定した。
 真紅は呆れたように溜息を吐いた。ニールはいつもこうだ。芸術家だからなのか、自身の創作活動――劇団で使う大道具などを作るとき――に変にこだわって周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買う。
一度などは、公演時間が迫っていて急がなければならない時に、自分が納得がいかないからと劇に使う机を何度も作り直していた。結局、団長が珍しく怒って止めさせたのだが、不満を抱えたニールはその後も何時間もかけて作り直していた。おそらく、彼の思い当たる面倒事もそういったことなのだろう。
「……あんた、ちょっと創作活動控えた方がいいんじゃない?」
「芸術家にその言葉は酷だぜ、真紅」
人通りの多い大きな橋にさしかかる。いつも人の多い場所だが、今日は何かあったのか、橋の袂(たもと)に人だかりができているのが見えた。
 物見高いニールが立ち止まって首を伸ばす。
「何だろう?」
「高札(こうさつ)かしら?」
国や役所などから、何か知らせることがあった場合、高札を立てて真紅たち庶民に知らせることになっている。それだろうか。
「高札はこんなところには立たないよ。ひょっとして、また例のアレかも……」
「アレ?」
 ニールが群衆の壁の向こう側にあるものを見ようと首を伸ばした。
 しかし、人々の間から現れた木の板、そこにかけられた筵(むしろ)の下から覗くものに真紅は眉を寄せた。
「なに? うわ……っ!」
「やっぱり……」
 苦々しげに呻くニールの近くを通りすぎたそれを、真紅も見た。
 木の板と藁でできた筵(むしろ)の間に挟まったもの。
 まだ水に濡れている、人間の死体だ。おそらく、水路から引き上げられたものだ。
 ただの溺死体ではない。木の板からだらりと垂れ下がった腕は真っ赤だった。血や染料などではなく、筋肉を構成する繊維の束が見えていた。皮膚が、ない。
 おそらくは、筵に隠れた胴体も同様なのだろう。
「まただ……」
 群衆の中の誰かがぽつりと呟いた。それに同意するように、あちこちから小さな声が交わされる。
「また犠牲者が出たぞ。これで何人目だ?」
「確か、先月も……」
「やっぱり、あの噂は本当なんじゃ……」
「鮮紅姫の幽霊……」
 人々の間で小さく交わされただけの会話は、不吉な余韻を残して人々の解散と共に、すぐに消えていく。
「やだなぁ……」
「また死体遺棄事件か。最近多いな」
真紅は恐怖にきゅっと身を固くした。
犯人は不明だが、水途には何年か前から誰かが水路に死体を棄てていく事件が起こっていた。今まで実物を見たことはなかったし、見たくもなかったが、全身皮膚の剥がされた状態だと聞いてはいた。
「気持ち悪い……」
「うーん、やっぱ人皮の面作ってんのかな。あれ、人間の皮膚でできてるっていうし。街じゃあ、あれの材料にした残りを廃棄してるんじゃないかって、もっぱらのウワサだったぜ。本当かどうかは知らないけどさ」
人皮の面とは、華胥における特級禁制品の一つだ。強い幸福感と依存性があり、その症状は麻薬の類にも似ている。
しかし、麻薬と異なっているのは、その特性と形状だ。麻薬は大概粉末の形に生成されるが、人皮の面はその名の通り、仮面の形をしている。どんな仮面なのかは真紅も見たことがないのでわからないが、人間の皮膚でできているということは知っていた。
一方、毒性も強く、普通の麻薬よりも危険度が一段階高い。その上、人皮の面には奇妙な特性があるという。実際はどうだか知らないが、自分の持つ能力が飛躍的に上昇するというものである。ちょっと、いやかなり胡散(うさん)臭い。真紅はただの都市伝説だと思っている。
「ちょっと、それ嫌だからもう話さないで」
「なんだよ、自分もさっきまで死体見てたろ」
「そ、そうだけど」
 何だかそんな怪談じみた話をされると、全身が痛いというか、むず痒(がゆ)くなってくる。居心地が悪い。
 まだ昼間だというのに、未知のものへ対する恐怖がわいてくる。
「でまあ、その犯人は最近水途で頻繁に目撃されている鮮紅姫の幽霊だとかなんとか。当初は何を言われてるわけでもなかったのに、最近じゃ、会うと皮を剥がされて水路に浮かぶ羽目になるって言われてる」
「それ、根拠は?」
「ない。まあ言わば、正体のわからない犯人に対する恐怖と、実在するかどうかもわからない鮮紅姫の幽霊への恐怖が混じったんだろうな」
 ニールはやれやれと肩をすくめてみせた。そういえば、彼は噂話は好むものの、怪談のような現実に実のない話は興味がないらしい。この手の話になると、急につまらなさそうになる。
「なんか嫌な空気になってきたな。こんなとこに長居するのも嫌だし、早く帰ろうぜ。時間くっちまった」
 早々と身を翻すニールの後に続き、真紅も歩きだした。
 橋の周囲では、真昼だというのに、生臭い風が吹いているようだった。
「夕方にはまた舞台があるだろ。真紅も早く戻らねえと、着替える時間ないぞ」
「うわ、そうだった」
 慌てて日の位置を確認する。まだ太陽はそんなに進んでいないが、早いに越したことはない。何せ真紅の演じる鮮紅姫は王女であり女王なのだ。用意された衣装や装飾品は身に着けるのも時間がかかるし、重くて裾も長いから、早めに着替えて慣らしておかなければならない。
 足早に帰り道を急ぐ真紅の後を、ニールが追う。真紅自身は急いでいるのだが、後を追うニールにとって歩幅の小さい彼女を追うことはたやすかった。
「ああもう!」
 なかなか縮まらない、劇場への道を小走りに急いでいると、前方右脇の路地から何かがごろんと飛び出した。
「んっ?」
 それは真紅たちの前方に現れ、絞り出すように声を出した。
「あれを……」
路地裏から目の前に出てきたものに、二人は驚いて足を止めた。掠(かす)れてうまく聞こえない、今にも消えてしまいそうな声を出しながら、近くにいる二人に手を差し伸べる。その手は木の枝のように細く、今にも折れてしまいそうだった。
「あれをくれよぅ……」
 焦点の合わない目で真紅たちを見上げていたのは、石畳にぺたりと座り込んだ、一人の男だった。もっとも、性別の判別がつかないくらいに痩せてしまっているので、男か女かはわからない。若い男と思われるのだが、げっそりと痩せてしまっているので年齢すら判然としない。
 突然現れた異様な姿の男に、一瞬だけ静かになったその場が、途端に騒然(そうぜん)となる。
 悲鳴と足音の飛び交う中、真紅はその人物から目を逸らせずにいた。
 枯れ木のようにがりがりに痩せてしまった体。
 ぱさぱさとして、艶のない髪。
 服は浮浪者のごときみすぼらしさで、破れた布地の下からは、あばら骨の浮き上がった細い胴体が見えた。
 それでも、目だけは大きく、爛々(らんらん)と輝いている。皮膚も筋肉も、何もかも衰えてしまっている体の中でそこだけが唯一輝いていて、異様だった。
 ぎょろりと目玉が動き、焦点の合っていないはずの目が真紅たちを映す。
「あれをくれよ、あれを……あれがなきゃおれはいきていけねえんだよ――」
「あれ?」
 怪訝そうな顔をして聞き返した真紅にも気を留めず、男は周囲に向かって喚き続ける。
「おまえたち、もってるんだろう! よこせよ! よこせよこせよこせ――」
 辺りに唾液を飛ばして男は喚き、近くにいたニールに掴みかかった。
 ニールは勢いよく振り払ったが、男は今度は近くにいた真紅に向かって、すがりつくように掴みかかってきた。思いがけず強い力で引っ張られ、驚きを隠せない。
「きゃ……」
 悲鳴が全部口から出る前に、男は真紅の視界から消えた。いや、正確には吹き飛んだ。
 横合いから繰り出された誰かの蹴りが、うまい具合に男の腹に入ったのだ。
「ぎゃあっ!」
「大丈夫か!?」
 真紅を庇(かば)うように、前に立った男の髪色には見覚えがあった。
 真紅よりも高い背。
 綺麗な群青の髪。
 御調だった。
 何故ここにいるのか、それはわからないが、今は知った顔がこの異様な場面に来てくれたことにひどく安堵した。
 勢いで地面に叩きつけられたものの、男はまだ焦点の合わない、血走った目で御調を睨みつけた。
「うっ……」
 その気持ち悪さに、真紅は口元を押さえて後ずさった。俯いて、男を視界から排除する。生理的嫌悪が体を支配し、ここからすぐに離れろと警告する。
 だが足は動いてくれない。この異常な事態に足が竦み、震える。
「大丈夫か、真紅」
「ニール……」
 ぐいと腕を引いて、男が見えないようにその腕の中に隠してくれたのはニールだった。真紅を抱え込むように背をわずかに丸め、後頭部に手を当てて腕の中に引き込む。
 ぎゅっと、頭を寄せられる手の力強さを感じて、ようやく落ち着いて周囲の状況を確認することができた。
 砂埃が舞い上がるほどの速さで、男は走った。普通の人間でも早いと思うほどなのに、あれほど痩せ細った人間がどうしてあんなに早く走れるのだろう。
 わからないが、男は尋常とは思えない身体能力で――それも素手で――御調に向かっていった。
 御調は獣のような声を発しながら突進してくる男に向かい、近くの壁に立てかけてあった船の櫂(かい)で容赦なくその腹を突いた。
「ぐえぇっ」
 蛙が潰れたような、耳障りな声を発して、男は地面に転がった。そのままくの字に体を折り曲げて苦しそうに咳き込んだところを、警吏たちが取り押さえる。
 それでも男はまだ抵抗し、わあわあと意味のわからないことを喚き続けた。
その力は思いがけず強く、警吏たちが何人も集まり、四人がかりでようやく大人しくさせることができた。
 ふと、暴れ続ける男の懐から、ころりと転げ出たものがあった。肌色の薄い、木の板。角は丸く、中央に三か所の穴が開いていた。並んで二つ、その二つと三角形を描くかのように下部に一つ。
 普段、舞台で使う衣装をよく目にしている真紅には、それが仮面であることがわかった。目と口の部分にだけ穴をあけた、本当に簡素な造りの仮面であった。
「なんだこれ」
 興味を引かれたのか、ニールが屈(かが)んでそれに手を伸ばした。あの狂人の持っていたものが何なのか、真紅も興味があった。
 しかし。
「触るな!」
 鋭い一声が飛び、ニールはびくりと体を震わせて体の動きを停止させる。驚いて声の方向に視線を向けると、御調が険しい顔でニールを睨んでいた。こちらの困惑をよそに、御調は仮面に近づき、懐から取り出した手拭いごしにそれを拾った。
 何故そんなに警戒しながら仮面を拾うのか、真紅には訳が分からなかった。薄い木の仮面は汚れてはいたが、真紅の目にはただの仮面に見えた。
 だが、御調から仮面を受け取った警吏の様子を見て、それがどうやらただの仮面ではないらしいことがわかった。警吏は仮面の正体に心当たりがあるらしく、暖かな午後だというのに、真っ青な顔をしていたのだ。彼は布で包まれたそれを受け取るのも嫌そうだったが、御調にやや強引に持たされ、渋々それに従って布の包みを手にした。
 彼が他の警吏たちの後を追って去っていくと、ようやく真紅の体から緊張が抜け、固くなっていた体がほぐれ始めた。
 日常生活の中では決して会うはずのない、異質な恐怖の元凶が去って行って、安心したのだろう。真紅はすぐ傍の壁に寄りかかって、まだどくどくとうるさく鼓動を刻む胸を押さえた。
 あんなことは真紅の人生で初めてだった。
「真紅、大丈夫か?」
 戻ってきたニールが真紅の顔を心配そうにのぞきこんでいた。その顔は真剣そのもので、どうやら自分は、相当ひどい顔をしているらしいことがわかった。
「ああ……うん、大丈、夫。ちょっと驚いただけ」
 まだどくどくいう胸を押さえて、大きく息を吐く。体は少し震えているけれど、気分は落ち着いた。
「あんなことがあったんだ、仕方ないさ。俺が巡回中でよかった」
 騒ぎで地面に落ちてしまった荷物を拾いながら、御調が軽く頷いてみせる。狂人の出現で周囲に散らばっていた人々もおそるおそる戻ってきた。二階の窓や屋上から見物していた野次馬は顔をひっこめ、その場は徐々にいつもの光景へと戻っていく。
 真紅は荷物の中身を確認しながら御調に問いかけた。
「ねえ、あの仮面って何だったの?」
 それを聞いて御調は一瞬動きを止めた。答えるべきか否か考えているらしく、眉根がくっと寄っている。
 さては聞いてはいけないことだったのだろうかと慌て、おろおろしていると御調がぽつりと呟いた。
「人皮の面だ」
「え?」
 何と言われたのか理解できず、すっとんきょうな声が出てしまった。何だか今日、すでにその言葉を聞いた気がする。
「じん……え?」
「さすがに心配だな、劇場まで送ろう」
 ぐいとニールと二人、背を押されてようやく歩き出す。厄介な荷物も、一部は御調の手の中だ。
歩きながらも考える。
 人皮の面。
 華胥が危険視する、禁制の品。
 人を狂わせる、魔性の仮面。
 それがあの、木の板?
 確かに、人皮の面は麻薬と同じ効果がある。
 でも、そんな普通の生活には出てこないようなものがどうして平穏な街中に現れるのだろう。
 一日の中で一番暖かい時間帯だというのに、真紅の背中はぞわりと粟だった。


 がうがう、あおーん。
 そんな獣の声が、複数入り混じって聞こえてくる。まだ奴らが生きている証拠だ。
 苦々しい思いでそれを聞きながら、朱(しゅ)玉(ぎょく)は部下の報告に耳を傾けた。
「……そのため、徐々に数は減ってきてはいます。ですが、繁殖率が高いこともあり、なかなか全滅というわけにはいきません」
「そうか、ご苦労だったな。下がっていいぞ」
「はっ」
 彼が一礼し、小屋を出て行くのを見届けてから、朱玉は大きく溜息を吐いた。長い黒髪がさらりと肩からこぼれた。
「どうかしましたか」
 いつの間に入ってきたのか、ひょい、と背後から筝雅が顔を出した。
「わかっているだろう。あいつらのことさ」
 あいつら、というのは、この小屋のすぐ外にある森に棲(す)んでいる擬(ぎ)獣(じゅう)のことだ。
 擬獣は、獣型のあやかりだ。主に山などに群れて暮らす。大きさは普通の犬と同じものから、家ほども大きなものまで様々である。今、朱玉がここで擬獣の討伐を指揮しているのは、彼らがもともとここにいたわけではないからだ。近隣住民の話では、ある日突然、集団でやってきたということだった。
 擬獣は、あやかりの中でも最もよく見かける種族だが、毛のふさふさした犬のような愛らしい外見とは裏腹に、性格は執拗(しつよう)だ。一度怒らせたら、本人の気が済むまで追いかけられることになる。
 そして、今ここにいる擬獣たちも恐らくは、恨みに思う誰かを追ってきたのだろう。
 その証拠に、彼らは白徒たちが元の土地に追い返そうと、彼らの嫌う香木をいくら焚いてもここから離れる様子を見せない。何頭かを殺して牽制(けんせい)をしてもまだ離れない。距離を取り、香木の臭いが薄まったらまた水途に入ろうと近づいてくる。また香木で追い返す。その繰り返しだった。
 そうしてもうすぐ一年経つ。
 一年とは、なかなかに長い。部下たちも随分と長い間、彼らと顔を突き合わせてきたものだ。擬獣のしつこい性格を如実に表した行動とも言える。
 だがそれは、彼らが狙っている人物が水途にいるという何よりの証だった。
 だが、誰に。何故。
 それがわからなかった。
 今のところ、手元にあるのは擬獣たちがもといた可能性がある土地の情報くらいである。だが、彼らはどこからやってきたのか突き止めるのも難しい。白水内であることは間違いないと思うのだが、山間部などには普通に存在する種族であるため、故郷の特定が難しい。
ただ、ここにあるのはあくまでも可能性のある土地の情報であるため、机の上に積まれた資料は文字通り山のようにある。
 それらを全て調べることは難しい。それならば、ここで擬獣たちと戦っている方が早いだろう、というのが初期の意見だった。
 甘かった。
 繁殖期のない擬獣の性質を忘れていたのである。
結果、一年経っても全体数から見て少しずつしか減らず、それならばやはりあの資料を調べようということになったのである。今回、朱玉が本部から呼ばれた理由もそのあたりに起因していた。
「ああ、でもそんなに大したことはないでしょう? ばらばらじゃないですか、あいつら」
「ばらばらだから困ってるんだ。群れであまり強力な頭目がいないというのも考え物だな」
 擬獣は群れて暮らす種族であるため、その中心には必ず頭目がいる。
 しかしここにいる群れは、群れとしては形を整えているものの、個々の行動が目立つ。群れをきちんと統率する頭目が不在の証拠だ。
「そちらはどうなんだ? 斑紋鯱が激減していたということだが」
「激減というほどではありませんが、確かに減っていますね。人皮の面が関係しているようで、今役所内で中毒者がいないか調査しているところです」
 朱玉はふむ、と腕を組むと、ちらりと机の上の山を見た。
「御調は怪我をして使えないんだったな?」
「はい。調べさせますか?」
 筝雅も、机の上に視線をやる。どうやら、考えていることは同じだったらしい。
「そうしろ。私がそっちに移る。どう考えても、そっちが優先事項だ」
「仰せのままに」
筝雅は恭(うやうや)しく一礼し、御調の前では絶対に見せない笑顔で微笑んでみせた。


真紅は常に不安を抱えている。
それは自分に自信が持てないからでもあったし、先の見えない人生に心配をしているからでもあった。
 自分という人間が本当にこの世に必要とされているのかわからなかったし、この世どころか、周囲の人間にも必要とされているのかわからなかった。この世のもの全てに必要とされていないとしたら、己は一体何なのか。何のために生まれてきたというのか。それを考えると泣きそうなほど悲しくなる。
 誰かに愛されたい。それは誰かに必要とされたいと思う、寂しさから来る人間の純粋な欲求だ。
 真紅も世の中の例にもれず、その欲求に捕らわれている。
 どうしようもなく不安になるのだ。
 ここは本当に己の居場所であるのか、本当にここにいていいのか。
 二年前に半谷一座に拾われてから、真紅はずっとそれを考えている。
「……釣れないなあ」
 海に釣り糸を垂れながら、真紅は一人ごちた。今日は全く釣れていなかった。せっかくつけた餌がいくつも海水でふやけて無駄になっている。
「真紅? どうかしたのか」
 何故か全身びしょ濡れの月海が視界に入ってきて、驚く。今日は半日の休みで、真紅はあの夜以来来ていない月海の家に遊びに来てみたのだ。
いつもは魚を釣って一座に持ち帰ったりするのだが、今日は月海がどうもおかしい。
どこか落ち着かなさそうにそわそわとあちこちをうろつき、真紅という客がいるというのに頻繁(ひんぱん)に家を空ける。
 かと思えば、ずぶ濡れになって帰ってきたり家の中をぐるぐる歩き回っていたりと、怪しさ満点だ。月海がこの様子では、釣りどころではない。竿に当たりが来ても逃しそうだ。今日は魚を持ち帰るのは諦めた方がいいだろう。
「ねえ月海、どうかしたの? さっきからうろうろして……」
「……ん? そうか? いや、どうも最近海がおかしくて」
 どうやら自覚はなかったらしい。それほど海が気になっていたということだろうか。
「海? 変なの?」
 真紅は窓から見える海に視線を向けた。いつもの通り、静かな海だ。これがどうしたというのだろう。
「なんか……うまく表現できないんだが……」
 月海は濡れた髪を拭きかけた格好のまま、手を目の前でぱたぱたと振ったり首を捻ったりとおかしな行動を繰り返す。普段、年齢の割に冷静な月海がこんな奇妙な行動をするのは珍しいことだった。
「どうもいつもと違う気がするんだ。天変地異でも起こるんだろうか……」
「て、天変地異!?」
「いや、あくまで例えだぞ? そのくらいおかしい」
「そんなに?」
 そこまで言われれば、真紅も気になってしまう。もう一度視界に入れた海が、どこか違って見える。
「他の漁師さんたちも何か言ってる?」
「うーん、特には……。でも何かおかしいのはみんな気づいてるみたいだ。祭りを待つ様子とは違ったふうにそわそわしてる」
 言われてみれば、桟橋で釣り糸を垂れる老人も、自宅の傍で網を繕うおじさんもしきりに沖の方を見つめている。
 数瞬だけだが、気がかりがあるように視線を上げて沖を見つめ、また作業に戻っていく。その繰り返しだ。
 やはり、誰もが日常に潜む異変に気づいているのだ。うまく言葉に表せないだけで。
 そこまで来ると、何故真紅は気づいていないのかが奇妙に思えてくる。
「ど、どうして私にはわかんないのかなあ」
「多分、いつも海には出ないからだろ。劇場も海からはちょっと離れてるし」
「ああ、そっか。月海はこんな近くに住んでるし、海にも毎日出るからなのね」
 だからこそ、いつもと違うことがわかるのだろう。
 だが、彼らがそこまで気にしてしまう異変とは一体何なのか。
 晴れた暖かい日だというのに、真紅の背筋はぞわりと粟立った。
 それは、昨日この水途に非日常の存在が確かに存在していると知った時と同じ心地だった。


「瑚姫(こき)様はどうお思いになられているのだろう」
 晴れた青い空の下、ぐしぐしと頭を掻(か)きながら、筝雅は呟いた。
 御調も知っているその名は、この白水州の領主の名だ。
 華胥ではそれぞれの地方を州と呼んではいるものの、そこを治めているのは王族であるため、州を治めている者のことを領主と呼ぶ。
 今の領主は、現女王の三番目の妹である瑚姫だ。少々派手な格好を好むものの、とても美しく狡猾(こうかつ)で、外見からはそうと思えないほどの策略家らしい。直接会ったことはないが、祭日などで民衆の前に出た際に何度か見たことがある。
 こう言っては何だが、そこらの女性よりもずっと若く美しく見える。とても、子持ちのバツイチには見えない。もっとも、そう思うから余計に彼女の若さや美しさが際立ってしまうのかもしれない。
「平鮫の件ですか? それとも、斑紋鯱の件ですか? それとも、人皮の面の件ですか?」
「全部さ」
 面識のない御調よりもずっと領主との付き合いが長いはずなのに、筝雅は気怠そうに溜息を吐いた。
「いいねー、お前は下っ端で。あの人の派手派手しい恰好やらヒステリーやら無茶ぶりな命令も縁がないんだからさー」
 心底羨ましそうに呟いた筝雅の視線を、御調は何事もなかったかのように受け流すことができなかった。ただ、その視線を受け止め、黙っていることしかできなかった。
「今回の件も……こっちでなんとかしろだとよ」
「領主様も、祭りの準備でお忙しいのでは?」
「はん、違う違う。元旦那がまた復縁を迫ってきて、ちょうど機嫌が悪かったんだ。嫌な時に報告する羽目になっちまった」
 瑚姫の元夫は、水途を中心に華胥の所有する海の警備・調査・管理を行う国家機関、海洋警備隊の最高責任者だ。つまりは、平鮫の件では彼らの責任でもあるわけなのだが、さすがに元夫に怒り狂う瑚姫には言えなかったのだろう。火に油を注ぎかねない。
 あんの若作りヒステリー女め、と呟いた筝雅の頭が急に何かではたき倒された。
「あだっ!?」
「主家の方に対して、なんたる口のきき方だ筝雅!」
 頭ごなしにそう怒鳴ったのは、筝雅よりは年下と見える若い女性だった。どこにでもいるような、地味な風貌の女性だったが、どことなく人の目を惹きつける人だった。薄い冊子を丸めた棒を手に持ち、それを振りながら筝雅を睨みつけている。
 上役の朱玉だ。御調や筝雅と同じ本部の所属だが、水途にしつこく入ろうとする擬獣がいるというので、そちらの対応に回ったのだ。
「いやあ、だってせっかくへとへとになってまで調査して報告したのに、あんな不機嫌オーラ丸出しで対応されたら腹立つじゃないですか」
「まあ、瑚姫様は少々気性の激しいお方だからな。仕方がない」
「仕方ない、では済ませられないと思うんですがね、あの人の場合……」
「ご子息とも離れて暮らしていらっしゃるんだ、寂しいのさ。嫌いな元夫のところに息子がいると思うと、あの方の気も短くなるというものだ」
「ああ、この祭りを境にようやく瑚姫様の方に戻られるんでしたっけ。両親のもとを行き来するなんて大変ですよねえ」
 御調も聞いたことがある。瑚姫には息子が一人いるが、離婚した際、彼の存在を夫婦で取り合った。結局瑚姫が引き取ることになったのだが、本人の要望で、その後も両親の家を半年ごとに行き来しているという。
 公式行事にも滅多に出ないので、御調は彼を見たことはない。
「それで、瑚姫様は今回の件に関して、何とおっしゃっておられたのだ?」
「こっちでどうにかしろとのことです」
 御調に話したことと同じことを報告し、筝雅は大げさに肩をすくめてみせた。
「それは……困ったな。いざ捕り物となったら、周りがみんな人皮の面の中毒者だったら洒落にならない」
「あれは能力も上がりますからね……。御調が捕まえてきた中毒者は薬剤の毒素で体がぼろぼろでしたから、どうにでもなりましたが――」
 人皮の面はひどい中毒を引き起こすと同時に、着けた者の能力を格段に上げる作用を持つ。同様の作用を持つ獣皮の面は、主に力や皮膚の強度などの身体能力を上昇させるが、人皮の面は仮面によって能力が変わる。
 出来栄えによって、上がる能力に差が出るのは獣皮の面も同じだ。だが、人皮の面は材料になった人の皮で能力に差が出る。
 戦士の皮なら身体能力を。商人の皮なら商才を。芸術家の皮ならその技術や発想能力を。
 この性質のため、人皮の面は道徳に反する品にも関わらず、欲しいという人間が後を絶たない。中には特定の人間を殺して、その人物の能力を自分のものにしたいと製作者に依頼するとんでもない者もいるという。
「……まあ、そこは私が瑚姫様を何とかしよう。御調、お前は今日から擬獣の資料探しを手伝ってくれ。資料探しなら、その怪我でも影響はないだろう」
「はい、わかりました。……すると、こちらの件については……?」
「ああ、私がやる。最近になってようやく人皮の面の製作現場を押さえられるかもしれないんだ、こちらが優先さ」
 そうは言ったものの、朱玉は気遣わしげに窓の外を見た。この部屋の窓からは水途の街並みと、その向こうに広がる森と平原が見える。
「とはいえ、擬獣たちがどこから来て、誰を狙っているのかがわからない。擬獣たちに無理矢理水途に入ろうとする気配はないが、目当ての人間が付近に近づくかもしれない。危険を避けるためにも、慎重に対応していかなければ」
「はい」
 御調はぴっと背筋を伸ばした。
 自分は白水の人間ではないし、今も本部から平鮫討伐のために貸し出された人員だが、あやかりに怯える人々を救ってやりたいと思う。
 だからこそ、自分は白徒になったのだ。
 御調の胸で、首から下がった白い輝石の首飾りがわずかに揺れた。


「真紅? 大丈夫か?」
 声をかけられて、真紅はようやく気がついた。隣にいる御調が心配そうに真紅の顔を覗き込んでいる。
 半谷一座の裏手、井戸のすぐそばにあるベンチにそろって腰かけた二人の傍で雀たちがぴちちと鳴いていた。
「あ、ああ、御調。どうかした?」
「お前の方がどうしたんだ。さっきからぼうっとして……」
「ご、ごめん」
「もしかして、疲れているのか? 無理して俺に付き合わなくてもいいんだぞ」
 御調はあれ以来、頻繁に真紅に会いに来てくれている。本人は巡回だとかなんとか言っているが、その理由はよくわからない。仕事が忙しいと聞いたが、大丈夫なのだろうか。
「大丈夫よ。それより、御調はそんなに休んでて大丈夫なの? いつも話聞いてると大変な職場みたいだけど……」
「ああ、気にするな。俺もまだ傷が治ってないし、上司以外は気を使ってくれている」
 上司以外、というところが少々引っかかるが、一応仕事はしているらしい。実のところ、彼が何の仕事についているのかはわからないが、どうやら警吏とかそういった公務員の類(たぐい)のものらしい。
 そこはよくわからないが、他のことは色々と話した。
 隣の炎狼山(えんろうざん)州の出身であること、普段はさらにその隣の州にある王都の龍山(りゅうざん)にいること、水途には仕事で来たこと。
「それより、真紅だ。何かあったのか」
「んー、あったといえばあったような気もするけど……」
 かといって、さすがに海がおかしいだのと言っても信じてもらえるかどうか。現状を奇妙に感じているのは今のところ、月海たち海辺の人間たちだけなのだ。
 いや、言ったところでどうにかしようもないだろう。彼らが異常を感じてはいても、それは常人の目に見える状態ではない。
「……やっぱり何でもないかな」
「そうか? もし何かあったなら、すぐに言え。力になるから」
「うん、ありがとう。そういえば、御調は最近忙しいの? なんだかばたばたしているみたいだけど……」
 実は今朝御調を見たのだが、忙しかったのか急いでいたのか、ばたばたと慌ただしく去っていくのを見た。傷に障(さわ)っていなければいいのだが。
「ああ、実は最近、死体遺棄事件の方が深刻化しているんだ。今朝もまた死体が棄てられているのが発見されてな、最近はどうも多い」
「え……」
 真紅は不安げに眉を寄せ、周囲をきょろきょろ見回した。
 本当にいるとは思っていないが、噂に聞く鮮紅姫の幽霊がそこにいるのではないかという不安があったのだ。
「どうした?」
「いいいやあの、わ、私も水路に浮かぶ羽目になったら嫌だなあって……」
 実際にはそんなことはありえないし、そうだと思いたい。ただ、事件の被害者にこれといった共通点がないのも、なんだか恐ろしい。
事件の被害者たちはそろって体中の皮を剥がされているため、身元の確認ができないことも多かった。
「今は俺がついている。大丈夫だ」
 僅かに口角を上げて微笑む御調になだめられるものの、一度湧き上がった不安はなかなか消えない。一連の事件が別世界のことのように思えるとはいえ、真紅の身に起こりえないことではないのだ。
 それは真紅一人に限ったことではないのだけれど、未知のものに対する恐怖は目に見えないからか、ひどく恐ろしかった。
「うん……」
 どこか力ない返事をする真紅が気にかかるのか、御調は視線を真紅から外さぬまま、自分の腕にしていた腕輪を抜き取った。
「持っていろ」
「え? わわ、駄目よ、こんなに高価(たか)そうなもの!」
 御調が差し出したのは、男性用の大ぶりな、赤銅(しゃくどう)の腕輪だった。ところどころに瑕がついているから外見の割に古いものなのだろう。色が黒ずんでもいないから、これはおそらく不酸化赤銅だ。隣の炎狼山州でのみ作られる、黒ずまない銅。その証拠に、腕輪には炎狼山の紋章である炎と狼が彫り込まれている。
 渡された真紅は、ただ驚いて御調の顔を見つめることしかできない。不酸化赤銅は装飾品としての人気も高く、輝きが衰えないため、高価なものなのだ。
「心配ない、貸すだけだ」
「で、でもこんな高価そうなもの! 貸してもらうにしたって、駄目よ!」
 慌てて腕輪を返そうと御調に差し出すものの、それは御調自身によって阻まれてしまった。真紅の手のひらに乗った腕輪を包むように、両手で真紅の手を包み込み、その手の中に腕輪を握り込ませる。
「俺が父親からもらったお守りだ。持っていればきっと、安心する」
「そんなの余計に借りられないわよ!」
 御調は今怪我をしている。お守りが必要なのは彼の方だろうに。
「俺はどうせ、仕事で机の前を離れることはそうはないし、幽霊におびえてもいない。真紅が持っていた方が有効活用できるというものだ」
 そういう問題ではない。
 なおも言いつのろうとした真紅の声を、後に続いた御調の言葉が遮った。
「それに、その方が俺も安心する」
 真紅の手を柔(やわ)く握ったまま、目を細めて微笑まれれば、もう真紅に抵抗する術(すべ)はない。
「……もう、わかったわよ。借りる、だけだからね」
「ああ」
 今度は満足げに微笑んだ御調の顔を見上げながら、真紅は何故だか自分の顔が熱くなっていくのを感じていた。
inserted by FC2 system