水都狂面譚

一、血みどろファーストコンタクト

 水途(すいと)は大陸でも最も大きな面積を持つ、華胥(かしょ)国の南東部に位置する白水(いずみ)州の州都だ。その名にある通り、水によって発展した商業都市で、州内の七割近くが海か河川である。水途はちょうど海と陸との境目にあるため、陸の物を海に、海の物を陸に運ぶための中継地ともなっている。
 整備された水路と古くから残る東洋式の建物が共存する白水は、風光明媚(ふうこうめいび)な土地として知られているが、中でも有名なのが火祭りだ。
 毎年春の祭りの最終日になると、その年の豊漁、豊作を願って夜の海に火で巨大な火を焚(た)く。これが水上火祭りである。この時、火は縄で繋がれた小船の上に篝火(かがりび)を立てられて数時間の間、燃やされる。そしてその間だけ、一般人も灯りを灯した小舟を海に流すことができた。手のひらに乗るほどの小さな舟を流すことによって、願いが叶うといわれているからだ。
 そのため、祭りの期間前後は人が水途に集まっているのである。
 水途の一角にある半谷一座の劇場も、そういった客相手に劇を披露する施設の一つだった。
 木造二階建ての西洋建築は、そこに一つの劇団を開業させてからまだ二年しか経っていない。中古物件で安く購入したため、建物自体は少々古い。しかし、小規模の劇団がそこで営業するには十分な広さを持っていた。
「ああ、疲れた……」
 舞台を終えた後は疲労感がひどい。
 それは自分に限ったことではないが、あれだけ大声で笑ったり騒いだりすれば当然だろう。まるで劇に魂を吸い取られたような心地さえする。
 狭い楽屋に戻ってきて、倒れこむように椅子に腰掛ける。古いものなので、背もたれが壊れてしまうのではないかと思うほど大きく軋(きし)んだが、今は気にしないことにした。
 大きく息を吐いて、そこでようやく着けていた仮面を外す。布製の仮面は軽く作られているはずなのに、なぜか手にずしりと響いた。
 紅を拭き取り、豪華で重たい衣装の襟をくつろげる。今日は暖かいということもあって、衣装の下にじっとりとした汗をかいていた。
「真紅! お疲れ様」
 今回は裏方へ回っていた同僚の牡丹(ぼたん)が水の入った茶碗を差し出してくる。
「ありがとう」
 礼を言って、茶碗の中身を一気に飲み干す。冷たく冷やされた水はのどをつるりと滑って胃の中に落ちていった。
 ふう、と一息ついて肩をごきごきと鳴らす。やはり衣装は重くて肩が凝る。
「いやー、今日もよかったわねー!」
 大胆に胸元を広げて、汗の浮かぶそこを団扇で扇いでいる肌の白い、金髪の女性は香榛(こうしん)だ。髪を飾っていた豪華な髪飾りを次々に引き抜いて鏡台に放りだしていく。豪華そうに見えるそれは、ほとんどが鍍金(めっき)で、本物は少ない。それでも舞台映えすればいいからと、知り合いの鍍金師に頼んで作ってもらったものなのだが、やりすぎなほどきらきらしている。
 真紅も、演技でばさばさになってしまった髪を手櫛で梳き、自分の納得のいくまで整える。いくら演技とはいえ、自分の髪がこんなにぐしゃぐしゃになるのは気が引ける。
 舞台衣装のまま、楽屋にいた女性全員で食堂に移動する。この後は反省会を兼ねた食事をすることになっていた。祭り本番は一週間も先だが、祭り当日にどんな客寄せをするかどんな演出をするかなど、決めることは多い。
舞台にも近いため、食堂には衣装箱や道具が、脇にごたごたと積み上げられていた。いつものことだが、ここで団員全員が食事をするとなると狭いだろうなあと、大机の上に並べられた料理を目にして思った。
「まあ、定番の『鮮紅姫』だもの。それなりに人気なのは目に見えているわよね」
 牡丹がうふ、と可愛らしく微笑む。
 彼女の言う通り、今この一座で公演している『鮮紅姫』は、水途では最も人気のある劇だった。
 鮮紅姫。
 それは、かつてこの地にあった哨(しょう)という国家の、最後の女王の異名である。
 彼女の本名は哨朱玉(しゅぎょく)という。
 妹姫の翠(すい)玉(ぎょく)ほど美しい容姿を持っていたわけではないが、女性にしておくのはもったいないくらい聡明で造詣(ぞうけい)も深かったと伝わっている。
 哨王朝の正統な血統に生まれた彼女は、皇太子の弟と父王を流行病で亡くして王位についた。
 形だけの王になると、誰もが思っていた。
 しかし、朱玉は王位につくや、男性顔負けの政治手腕を発揮し始めたのである。彼女の能力は周囲の予想をはるかに上回っていた。
 しかしこの頃、宮廷に放火したものがおり、宮殿が半焼するという事件が起こった。朱玉は顔の右半分にひどい火傷を負い、それを隠すために仮面をつけて生活するようになった。
 しかし、醜い顔の彼女を嫌ったのか、それとも破竹の勢いで大陸統一を目指していた隣国・華胥の脅威に耐えられなかったのか。朱玉の許婚であった貴族令息と、妹姫が駆け落ちをしたのである。
 駆け落ちといえば聞こえはいいが、実質は逃亡だ。彼らは朱玉と祖国を見捨てたのだ。
 そこから彼女は段々と狂いだす。
 夜中に宮廷を歩き回る。
何十分も笑い続ける。
 もういないはずの家族や許婚が存在しているかのように振る舞う。
 機嫌の悪い時などは、何の罪もない官吏を死罪にしたりもした。
 そういったことが何度も繰り返され、やがて人々は鮮血を浴びた非常な姫という意味を込めて、朱玉のことを鮮紅姫と呼んだ。
 正気の沙汰ではない――誰もがそう感じる中、哨は華胥の侵攻を受けて滅亡する。
 鮮紅姫も敵国の女王として捕まった。
 彼女は処刑当日も牢の中で笑い続けていたという。
 やがて、華胥の女王自らの手によって、鮮紅姫は処刑され、その生涯を終えた。
 この、彼女の人生を劇として表したのが、舞台『鮮紅姫』である。悲劇ではあるものの、その人気は高く、水途の劇場では定番の演目となっている。
 特に春の祭りでは、どこの劇場でも必ず『鮮紅姫』が演じられ、互いにその出来を競い合う。劇団によって、多少の脚色を加えたり、全く違った結末になることもある。半谷一座は今まで正統な『鮮紅姫』を演じているが、祭りの期間の客の入り具合によって、内容を変更するかもしれなかった。
「鮮紅姫といえばさ……例の噂、本当なのかな」
 ふと、不安そうに牡丹が呟いた。
「噂って?」
「ほら、水途に鮮紅姫の幽霊が出るっていう」
 ああ、と真紅は頷き、他の団員たちもそれを受けて自分たちが耳にした噂を次々に口に上らせていく。
 ここ最近、鮮紅姫に関して流れている噂の一つがこれだった。
 昔からあった話なのだが、水途に哨王朝最後の女王・鮮紅姫の幽霊が出るというのだ。
 現在この国を治めている華胥に不満を持って現れるのだとも、自分を裏切った人々に復讐するために現れるのだとも言われている。
しかしここ数年、何故か頻繁にその姿が目撃されるようになり、こうして人々の話題になることもちょくちょくあった。
「つい最近、海南(かいなん)広場で出たってよ。祭りの実行委員会の奴が言ってた」
「私は先月、港の方で出たって聞いたわ」
「俺は以前、ついに領主館の近くに出没したって、大騒ぎしてたのを聞いたね」
 どれもここ最近の話だ。どこから流れてきた噂なのかは知らないが、どれも水途内でのことだという。
「鮮紅姫かぁ……。見たい気もするけど」
 劇で鮮紅姫を演じる身としては、気になる存在ではある。
「ちょっとちょっと、真紅! まさか本気じゃないでしょうね!?」
 近くで聞いていた牡丹が真っ青になった。その必死の形相に真紅も、慌ててまさか、と首を振って否定した。
「いくら私でも命は惜しいのよね」
 鮮紅姫の幽霊にはよからぬ噂がある。それは水途市民を震え上がらせるには十分の内容で、最近では誰もが影でそれに怯えている。
 それでも祭りでだけは……と思い、なんとかこの祭りを盛り上げようと、水途の住人はいつになく張り切っていた。
「あーあ、白峰(しらみね)の人が祭りの準備や警備で手一杯じゃなければなあ」
 その単語に、真紅は眉をひそめた。
あやかり専門特殊国家機関・白峰。
 あやかりとは、通常の動物より高い知能と能力を持ち、人間を害する動植物などの総称である。妖怪などと呼ばれることもあり、分類上では幽霊なども入る。
 あやかりの被害を受けた村。あやかりの仕業としか思えない、不可解な出来事。死者の幽霊による、奇妙な事件。
そういった事件を解決するのが白峰の仕事だ。白峰は国内での認知度と人気が高く、入団したいと言う者は後を絶たない。
「この時期はいつも無理じゃない。それにどうかなるなら、とっくにどうにかしてくれてると思うわよ」
 真紅は冷たく言った。牡丹は気づかなかったようだが、多分に嫌悪の感情が出てしまった気がする。その理由を知っている者もいるが、知らない者もいる。気づかないといいのだが。
「そっか、そうよね。でも帰り道で、鮮紅姫に会ったらどうしよう」
 白峰は国家機関であるために、こういった地方の大きな行事の際には警吏と共に駆り出されてもいる。良くも悪くも、華胥政府には警吏と混同されやすい組織なのだ。
「俺なら、鮮紅姫より哨翠玉の幽霊に会いたいね! 幽霊でもやっぱり美人の方がいいじゃん」
 座長の来る前だというのに、すでに酒瓶を手にしたニールガイが笑い飛ばした。彼の担当するところである大道具の類は、大方がまだ舞台に残っているのだろう。それでも食堂の隅に、舞台で使用した机や椅子などが乱雑に積まれていた。一応、少しは片づけたらしいから大目に見るべきなのか。
「あら、翠玉が話ほど綺麗じゃなかったらどうするのー? あたしの方が綺麗かもしれないわよ」
 『鮮紅姫』で翠玉を演じている香榛が張り合うように、胸を張った。『鮮紅姫』において美貌の公主・翠玉を演じるだけあって、薄暗い灯りの下でのその美しさは、真紅など比べ物にならないほどである。しかし、彼女はその外見のみならず、竹を割ったような性格でも周囲から慕われていた。真紅にとっても、姉のような存在である。
「その時はそれ、そっちが偽物かもしれないし。やっぱり、誰もが称賛するほどの美人って見てみたいじゃん? 夢は持ち続けないとね!」
 その図々しい言葉に全員が笑い、軽口などを叩きながらまだやってこない座長の染葉(そめは)と副座長の荷稲(かいな)を待つ。
 裏方の担当が作った料理を前に歓談していると、どんどんと近くの勝手口の扉が叩かれる音がした。
「客だ」
「えー、こんな時間に?」
 とりあえず近くにいた真紅が立ち、舞台の衣装を身に着けたまま勝手口を開けた。
「あら、月海(つきみ)」
 開けた先にぽつんと立っていたのは、顔見知りの漁師、月海だった。混じりけのない黒髪と、同色の澄んだ目が綺麗な少年だ。
 月海は真紅よりも幼いが両親はおらず、漁師として一人で生計を立てている、一座の常連だ。彼は時折ここに遊びに来ては、十三歳の少年としては律儀に、公演前に少しだけ楽屋に顔を出していくのだ。
「荷稲、いる?」
 走ってきたのか、わずかに上気した頬で、単語の合間に荒い呼吸を繰り返す。肩が夕方の薄闇の中で大きく上下しているのがわかった。
「いるけど……どうしたの?」
 少年の尋常でない様子に、真紅も慌てて食堂に向かって、荷稲を呼んできてくれるように頼む。月海に中に入るように促すが、本人はひどく急いだ様子で首を横に振った。
「怪我人がいるんだ。だから荷稲を呼びに来た」
「えっ」
 半谷一座の副座長、荷稲は昔戦場で医者をやっていたことがある。そのため、この界隈(かいわい)では、近くの医者が不在の場合は荷稲に頼ることが多かった。
「インサ先生は?」
「酒場に行ってて留守らしい。夜中まで不在にするんだと。医者が聞いて呆れる」
 ひどく不機嫌そうに呟いた月海は、早く早くと食堂にいる全員を急かした。
「わかったわよ、もう。私が先に行くから。だからそんなに喚(わめ)かないで」
 あまりに月海が急かすので、ついに真紅はそう言った。
「なら、早く行こう。流されるかもしれない」
「流される? ちょっと待って、その人どこにいるの?」
「うちの近くの杭に引っかかってたんだ。でも大人だし、着てるものが水を吸って重くて。うちのあたりでも酒場に出かけて行った人は多いから、頼める人は誰もいないし」
ぐいぐいと袖ごと腕を引かれて転びそうになる。慌てて踏ん張り、食堂にいる座員たちに事情を話そうと振り返ると、両手に先程まで着けていた仮面と紙の束を押し付けられた。
 押し付けてきたのは、してやったり顔の香榛で、真紅は口元をひきつらせながら彼女を見やった。
「どうせそのままの格好で行くんでしょう? ついでに祭りに向けて宣伝、お願いね。ああ、帰り道でいいから」
 有無を言わせぬ笑顔で言い切った香榛に真紅は何も言うことができず、仮面とビラ束を手にしたまま月海に引きずられるように駆けだした。


 月海の家は港からも遠い、閑静(かんせい)な漁港の近くにある。街の近くと、沖の方に高床式の木造の小さな家が建っているのは、このあたりの人々が季節ごとに家を移り住むからだ。季節によって潮の干満が変わるため、このあたりの漁師は夏用と冬用の自宅を持っていることが多かった。今は祭りの準備期間に入っていることもあり、いつもなら烏賊釣りの漁船で賑わう港も静かだった。
 月海の家もそういった家の一つだった。
 ごたごたと漁業用具が置かれた家の脇を通り過ぎ、簡単なものしか入っていない救急箱を片手に、暗い桟橋の上を歩く。
 ここには何度か来たことがあるが、こんなに暗くなってからは初めてだった。幼いながらも漁師である月海は朝が早いから夜更かしが禁物であるためだ。
 件(くだん)の人物はどこだろうと周囲を見回していると、月海が一目散に、桟橋の一角に駆けていく。
 慌てて追いかけると、確かに桟橋の横に何本も突き刺さった杭の間に、何かが浮かんでいる。
 人だ。
 暗い夜の海と同化するかのような群青の髪に、血の気の引いた青白い顔。
 若い男だった。
 だが、その梅染(うめぞめ)色の着物の胸から腹にかけて、黒いもので汚れている。血だった。
「どうも、平鮫(ひらざめ)にやられたらしいんだ。体がわりと丈夫みたいだけど、早く手当しないと」
 怪我人だと聞いていたから、真紅はてっきり喧嘩か何かで怪我をした人物だと思っていたが、違ったらしい。平鮫は海に住むあやかりの一種で、その凶暴な性格でよく知られている。血の匂いがなくとも、腹が減っていれば自分よりも大きい生き物にでも食いついていくという。
 服だって海水を吸って重くなっているだろうに、月海は構わず引き寄せて持ち上げようとしたが、うまく上がらない。真紅が手を貸してようやく、男の体は桟橋の上に上げることができた。
 ちゃんと生きているのか心配になって顔を近づけると、小さいながらもしっかりとした呼吸をしている音が聞こえた。
 一安心して、そのまま二人でずるずると月海の家まで運び込む。服の上からでも、男の体にがっしりとした筋肉がついているのがわかった。外見から見るに、漁師でも商人でもなさそうだ。
群青色の髪をした、若い男。
 血の気の引いた顔からは、とてもではないが、平鮫に向かっていくほどの無謀(むぼう)さがあるようにも思えない。
 ともあれ、月海と男の濡れた衣服を脱がせて止血をする。服は、月海が父親のものを家の奥から引っ張り出してきた。
真紅も月海も医者ではないので、自分たちの知っているやり方で応急処置を施(ほどこ)す。あとはちゃんとした知識を持っている荷稲が早く来てくれるのを待つばかりだ。
「ねえ、月海。今の時期、平鮫ってこのあたりに来るの? あんまり聞いたことがないんだけど……」
 男の濡れた髪をわしわしと拭いてやりながら、真紅は月海に聞いた。平鮫は凶暴で有名だが、春のこの時期はさして存在を耳にすることもない相手だ。いつもは夏から秋にかけて聞く名前だ。
「いや。いつもはもっと沖の方にいる。繁殖の時期だから、こちらに来ることはまずない。このあたりは干潮になると海面が出るくらい浅いから、来ても浜に打ちあがるのが落ちだ」
「じゃあ、この人はどうして?」
「……さあ。沖に行って、平鮫に襲われたかな。雌は卵を産む力をつけようと、いつもより凶暴になるし」
襲われてもうまく浅瀬に逃げ込むことができれば、あいつらも追ってこないから助かったんだろう、と月海は自分なりの憶測を口にした。
「こんな時期に……何をしてたのかしら。ひょっとしてこの人、密猟者?」
「平鮫を密漁してどうするんだ。捕まえても不味いし、肥料くらいにしかならないぞ」
「だって、そうでもないと、理由が考えつかないじゃない。どう見ても噛み傷だったわよ、この人の傷」
「さあ……」
血で赤く染まった男の服を、月海は嫌そうな顔でつまみあげながら、首を傾げた。梅染の服はべっとりと血が付着し、おまけにひどく破れてしまっているので、もう着ることは不可能だろう。
「それより、もう一枚服の換(か)えがいるかな。なんだかそんな予感がする」
 そう言って、月海は再び木の行李(こうり)の中に頭を突っ込んだ。蓋を外さずに頭だけを行李の中に入れているものだから、首が締まりそうになっている。
「怪我人はどこだ!」
勢いよく扉を開けた厳しい顔の女性――荷稲の来訪に驚いて、真紅の肩が跳ねた。同様に、月海が行李の蓋に頭をしたたかにぶつけたのはその直後だった。


 朝、まだ少し薄暗い中を、あくびを噛み殺しながら月海の家に急ぐ。昨夜は怪我人を月海に任せ、治療を終えた荷稲と共に一座へ帰った。
だが早朝から月海の家に向かっているのは、劇の準備やら何やらで忙しい荷稲に、例の怪我人の治療を頼まれたからだ。無理だと断ったものの、あの荷稲がそんなことで了承するはずもなく、結局真紅はこうして朝の早い時間から外出している。
 昨日も通った道を小走りに走り抜け、月海の家の傍に、いつものように彼の小舟がないことに首を傾げる。どこかに出かけたのだろうか。
「月海?」
 外から声をかけてみるものの、中からの応答はない。やはり出かけているようだ。それでも一応確認を、と玄関の扉の取っ手を掴んで、呆れた。鍵がかかっていない。出かけるのに家の鍵をかけて行かないなんて、不用心にもほどがある。
 苦笑しながら家の中を覗き込み、そこに相変わらず臥(ふ)せったままの怪我人一人しかいないことを確認して、大きな溜息を一つ、吐いた。
 今まで何度も世間とずれているなあと感じたことのある月海の感覚だが、ここまでとは思っていなかった。さすがに漁には出ていないと思うが、そうでなければ一体どこに行ったのだろう。
 持ってきた救急箱の中から薬や包帯を取り出し、まだぐっすりと眠っている男の服を剥(は)いでいく。なんだか変な気持ちにならないでもなかったが、変にむず痒い気持ちを押さえて、なるべく見ないようにしながら包帯を取り換える。
 今目を覚まされたら、確実に痴女(ちじょ)だと思われそうだなあ、と自分でも思う。
男に対する耐性はあまりないが、年頃の女性として男性に興味が全くないわけではない。牡丹や香榛と恋愛話をすることだってあるし、余所の劇団に所属している男優をいいなあと思うことだってある。ましてや、相手は美男とはいかないものの、そこそこ顔の整った男らしい妙齢の男性だ。真紅がちょっと変な気持ちになったとしても、なんらおかしくない。
「それにしても、本当に綺麗な色だなあ……」
 包帯を巻き終わり、身を乗り出してその髪をじっと見つめる。
 窓から少しずつ入ってくる朝日の中で、晴れた夜空のような群青色の髪が不思議な存在感を放っている。外国人も多く集まる水途でも見たことのない、珍しい、綺麗な色だ。茶色の混じった、黒い真紅の髪とは大違いだ。
 それを羨(うらや)ましく思いながらも、再び剥いだ服を着せていく。上半身だけとはいえ、重い大人の男の体を動かすのは大変だ。
 最後に帯を巻いていくが、男性の衣服など着付けることがないからだろうか、どうにもうまくいかない。何度か結んだり解いたりを繰り返して、ますますわからなくなる構造に首を傾げている、と。
 目が合った。
 髪の色と同じ、群青色の目が真紅をじっといぶかしげに見つめていた。
 互いに無言で見つめ合うことしばし。
 先に行動を開始したのは男だった。
 ものすごい速さで跳ね起きた男は、素早く真紅の喉元(のどもと)を捕え、そのまま床に押し倒した。
 男の端正な顔がすぐ目の前にあった。近づきすぎて鼻がくっつきそうだ。唇がくっついてしまいそうな、ロマンチックな状況だが、現状ではロマンのろの字も感じられない。
「誰だ」
 低い誰何の声と、不機嫌そうに細められた目に、ぞわりと恐怖が体を支配した。
 怖い。
 男の群青色の目にこもった何かしらの強い感情が、まっすぐ真紅を射抜くように見つめている。おそらく、怒りに近いものだ。
 湧き上がってきた恐怖に何も言えず、目の前の男の目を見つめ返していると、ふと男の表情が和らいだ。
「なんだ……違うのか」
「え?」
「すまない、勘違いした。寝ぼけていたようだ」
 本当にすまなかった、ともう一度謝罪し、男は再び床に就いた。
 どんなひどい寝ぼけ方をする人なんだ。
 そう思いはしたものの、まだ押し倒された時の衝撃で心臓がどくどくと激しく鼓動を打っている。
「……大丈夫か?」
 いつまでたっても動かない真紅に不安になったのか、男が声をかけてきた。
 それにはどうにか頷いたものの、まだ真紅の心臓は治まってくれそうにない。
「すまない、随分と驚かせてしまったようだな……」
「ああ、待って待って!」
 顔をしかめながらも、男がまた起き上がろうとしたので真紅は慌てて止めた。
「傷が酷(ひど)いんだから、動いちゃ駄目!」
 言われて、男は再び横になった。
「……それにしても、人の帯をぐちゃぐちゃと……何をやっていたんだ?」
「いやあの、えーと……」
 さすがにこれには答えにくい。
 正直に言うのははばかられるが、かといって、何か筋の通った言い訳を思いつくわけでもない。
 かなり恥ずかしいが、ここは正直に言うしかないだろう。そう思って口を開いた瞬間、男の方が先に言葉を発した。
「……痴女?」
「ちっ」
 一番恐れていた単語を口にされて、真紅の羞恥心は一気に高まった。羞恥で顔がみるみる赤くなり、目が潤む。
「違うもん!」
 真紅はそのまま、男の顔に向かって、傍にあった布の塊――取り替えたばかりの汚い包帯――を投げつけた。
 乾いた血で赤茶色に汚れた包帯の山を顔面に受け、男はくぐもった呻(うめ)き声を上げた。


「御調(みつぎ)、だ」
 群青の男はそう名乗った。
 まだ体は床に臥せたままだが、自分で帯を結んでくれたので、真紅にはありがたかった。
「……私、真紅」
 少し離れた位置でぼそりと呟く。視線も合わせない。合わせることさえ気まずい。さすがに初対面で痴女呼ばわりされて、まともに相対できるほど、真紅の面の皮は厚くない。
「……悪かった。だからそんなに離れないでくれ。話しづらい」
 渋々近くに移動して、まだ少し青白いその顔を覗き込む。
 群青の髪に目、若い精悍(せいかん)な顔つき。年は真紅より少し上のようだ。
「ここはどこだ? 俺はどうなった?」
「ここは私の知り合いの漁師の家。あんたは怪我して海に浮かんでたところを発見されたの」
「ああ、そういえば海に……。そうか……」
 真紅にはよくわからないが、御調は一人何事か呟いて、勝手に納得したらしい。
「ありがとう」
「お礼なら月海と荷稲さんに言って。あんたを見つけたのは月海で、治療をしてくれたのは荷稲さんなの。月海は今はいないけどそのうち戻ってくるはずよ」
 本当に、月海はどこに行ってしまったのだろう。祭りの期間だから、漁に出ることはないはずだ。かといって、この時間は市場も開いているかどうかも怪しい。よほど出かける用事でもあったのだろうか。
「それにしても、平鮫に襲われるなんて、あなた一体何してたの」
「……最近、平鮫の数が増えてきたとかでな、漁業組合から駆除依頼が来たんだ。予想外に数が多くて、少し手こずった」
「そうなの? 月海はそんなことは言ってなかったけど……」
 首を捻るものの、そう言われても御調も困るだけだろう。月海も一人前の漁師とはいえ、まだ十三歳だし、聞かされていないだけかもしれない。真紅は大人しく納得しておいた。
御調の体に掛布をかけ、取り替えた包帯をまとめて台所にある籠の中に放り込む。くしゃくしゃになった紙屑が入った籠は、火の焚きつけになりそうな紙類を入れておくためのものだ。これだけあれば、しばらく火の焚きつけに困ることはないだろう。
籠の中から舞い上がった紙切れが床に落ちたが、構わず帰る支度を始める。そんなに長居はできない。今日も午前中に公演を予定しているのだ。準備することは山のようにある。
 御調もあの様子では動けないようだし、今真紅にできることはもうなさそうだ。
「じゃあ、私は帰るから。後は月海が来るまで寝てて。一応、荷稲さんも来ると思うけど、時間があればまた午後に来るわ」
「ああ……すまない」
 眠くなってきたのか、うとうととまどろみ始めている御調の顔を見て、真紅はようやく微笑んだ。
「……おやすみ」
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