水都狂面譚

〇、準備は整った

 笑いさざめくたくさんの人の声。
 本番直前になっても騒がしい楽屋。
 出番を前にして、団員たちの間に流れる緊張した空気。
 それらはもはや、真紅(しんく)にとって慣れ親しんだものであった。
 同僚が全員出払ってしまった狭い楽屋の椅子に座り、全身でいつもの空気を感じ取る。
幕の向こうで客に向かって挨拶する座長の声も馴れたもの。
逸(はや)る心を抑え、役者はただ幕が上がるのを待てばいい。
 息を吸って、吐く。それから、目の前の机に置いてある仮面を静かに手に取った。
 それは顔の上半分だけ覆う布製のもので、赤く彩色されていた。舞台用のものだから、派手に飾り付けがされている。
 仮面の両端に付いた赤い房飾りが真紅の手首をくすぐった。
 もう何度も演じ続けてきた演目――鮮紅(せんこう)姫(き)。
 過去に実在したという、東の暴君。狂っていたといわれる彼女を演じるのが、今の自分の仕事。
 彼女の狂態を演じるのは抵抗があるという役者もいるが、真紅はそうは思わない。
 自分にできることがあるというのは、とても嬉しいことだから。
「真紅、出番よ」
「わかった」
 扉の向こうから顔を出した同僚にそう返事をすると、真紅は仮面を机の上に置き、立ち上がった。仮面の出番はまだ後だ。
薄暗い舞台の上に上がって、幕が上がるのを待つ。
そこに、雑念はいらない。
真紅(しんく)はゆっくりと目を閉じた。
「それでは、我ら半谷(はんがい)一座の舞台を存分にお楽しみ下さい!」
 座長の言葉が終わるか否か、というところで、下りていた幕がするすると上がり始める。
 ――さあ、ここからだ。
 ぐっと下腹部に力を入れ、目を開く。
 上がった幕の向こうから聞こえる拍手を耳にしながら、真紅は舞台用の笑顔を顔に乗せた。
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