魔女に貢ぐ歓喜の歌

09

「おはようございます、ご主人様」
 庶民的な自宅の中だというのに、黒髪の男が執事のように甲斐甲斐しくルクレツィアの世話をする。
 いい加減、慣れた。
 エキドナに世話をされるのも、恋人同士の同棲みたいな今の状況も。
 朝はいつもどおりの時間に起こされ、自分で服を着た後に髪を整えられ、エキドナの作った朝食を食べる。
 もちろんエキドナは食べないから、椅子に座って食事をしているのはルクレツィアだけだ。エキドナは机の向こう側でルクレツィアが食べ進めるのを、微笑みながら眺めている。何がそんなに嬉しいのかは不明だ。あまりににやついた顔をしているので、この食事には何か入っているんじゃないかとさえ思う。
 とりあえず机の上に乗っているのは、いたって普通のメニューだ。
 近所からもらった卵と野菜で作った卵料理にサラダ、それにパンとスープだ。ルクレツィア一人の頃より二品も増えている。
 悔しいことに、味は文句なしの美味さだ。まさか魔界ではこんなことも習うのだろうか。毎度のことながら謎だ。
「……ごちそうさま」
「はい、お粗末さまでした」
 食べ終わると、エキドナが食器を下げる。
 ルクレツィアがいつものように、依頼された薬の種類と数を確認していると、背後から大きな何かが覆い被さってきた。
「な、なにっ?!」
「ところでご主人様」
 間近から聞こえた声で、背中にくっついているのはエキドナなのだとわかる。腹に両手が回ってきて、ぴったりと密着させられる。
「仮契約のことなのですが、実は今日がちょうど一ヶ月目でして」
「あ……ああ、そう」
 まずい。
 この一ヶ月というもの、魔術道具作りを優先していたので、仮契約のことがすっかり頭から抜け出ていた。その頃にはストラスを喚(よ)び出して契約する予定だったし。
「なのでそろそろ、ご主人様の意見を聞きたいなー、と思いまして」
 エキドナの声が笑っている。多分、目も口も笑っているのだろう。追い詰めた鼠をどうしてやろうかと思案しているような、そんな表情に違いない。
 まずいまずいまずい。
 額と背中に嫌な汗をかいているのがわかる。
 体は逃げたくても逃げられない状況だし、口はまともに動いてくれそうにない。
「さあ、どうします?」
「い……いやほら、他の魔人を喚べばいい話だし……」
「魔女に忠誠を誓う変(か)わり種(だね)がそうそういると思いますか? それにその魔力もない」
 ぐっ、と言葉に詰まる。エキドナの言うとおり、魔女との契約を望む魔人がそう何人もいるとは思えなかった。おまけに彼らを喚ぶ魔力もない。魔人は基本的に魔女との契約を嫌がる。エキドナが普通の魔人とは違うのだ。
「どうします? 契約しますか? まさかここに来てやめるなんて言いませんよね?」
 ずずいと決断を迫られる。エキドナはどうあっても、今契約をしたいらしい。
「う……くそぅ。…………しょうがないから契約してやる…………」
 言葉を口の中で噛み潰すように言った。ルクレツィアにとって、これまでセクハラまがいのことをしながら契約を迫ってきたエキドナにこんなことを言うこと事態が屈辱だった。
 そしてそれは実質、ルクレツィアの敗北宣言だった。実際は、昨日は悪かったとか、助けてくれてありがとうとか他に言いたいことはある。だが、生来の意地っ張りな性格のせいでうまく口にすることができないのだ。
 しかし、てっきりやかましく騒ぎ始めると思われたエキドナはいつまでたっても大人しいままだった。
「………………?」
 ルクレツィアがなんとか首を動かしてエキドナの顔を覗き込むと、彼は喜悦に顔を輝かせ、感動に体を震わせていた。
「あ、あの、さ……」
「嬉しいです、ルクレツィアっ!!」
「ぐぇっ」
 両腕に力を込めて抱きしめられ、ルクレツィアは蛙の鳴き声もかくやという声を発した。
 エキドナがぎゅうぎゅうとルクレツィアを抱きしめてくる力は先ほどの比ではない。まるで力を込めることが愛情表現の一種だと考えているかのようなエキドナの抱擁に、ルクレツィアは意識が飛びそうになった。魔人の力は案外強いものらしい。
「ああ……ルクレツィアが私と契約してくれるなんて、夢のようです……」
「くっ、苦しぃ……」
 腹部をエキドナの腕に圧迫されてルクレツィアの口からか細く、裏返った声がこぼれた。
「主従ですね、これで私たちは正式な主従関係ですね!」
 満面の笑みでうきうきと話すエキドナは、まるで子供のようだ。気恥ずかしさからそれを見ていられなくなったルクレツィアは口の中で負け惜しみのように呟いた。
「ふん、いいカモが捕まってさぞやいい気分だろうな」
 途端、エキドナの動きがぴたりと止まった。
「ご主人様、ひょっとして私が誰でもいいから契約したと思っているんですか?」
「……違うのか?」
 会った当初からエキドナは契約をしたがっていたから、そうなのだと思っていたのだが。
「違いますよ! 誤解するにもほどがある」
 先ほどの上機嫌が嘘のように、エキドナは眉間に深い皺を刻んだ。
「私はあなたに会う前からあなたと契約したいと思っていました」
 静かに右手を取られ、両手で包まれる。
 周囲からふわりと紫の光がこぼれだす。エキドナが召喚されたときにも出ていたが、どうやらこれがエキドナの代表色らしい。
 同じ色の瞳でじっと見つめられて落ち着きがなくなる。何かをしなければいけないような、どこかに行かなければいけないような、そんな落ち着かない気持ちになる。
「以前にもお話したように、私はまあ、いわば……ストラスの弟子でして」
 エキドナは苦いものを噛んだかのように顔をしかめた。ストラスの弟子と名乗ることがそんなに嫌なのだろうか。
「ですから、彼が人間界に出かけて何故憔悴(しょうすい)して帰ってきたのかも知っています」
 まだストラスの魔力の乱れを感じる前のことだ。あまりの憔悴ぶりを不審に思ったエキドナは彼を問いただし、契約主親子のことを知った。特に、彼の育てたルクレツィアのことは耳にたこができるほど。
「その時に、思ったんです」
 ふわりと綻ぶような微笑みが目の前にあった。目の前の魔人が、今までに見たこともない至福の表情をしていた。
「自分が行くまで誰も使い魔にしてほしくないと。単純な好奇心ですが、あなたと一番に契約をするのは自分だと決めていました。実際のあなたは考えていたのと少し違いましたが……こちらの方がずっといい」
 動きを感じさせない優雅な所作でエキドナは跪(ひざまず)き、両手に包んだ右手を押し戴くようにして唇を近づけて囁く。
「私はあなたの使い魔になる(ジュ ドゥヴニール ヴォトル エスピリ ファミリエ)」
 そうして、ことさらゆっくりと手の甲に口付けた。
 そこを起点とするかのように、ルクレツィアの体に旋律が駆け巡る。
 人間の言葉ではない、音もない、けれど確実に歌だとわかるなにか。
《使い魔を、大事にしなさい》
 脳髄に声が響いた。
 耳からではなく、頭の中から自然発生したかのような音。女のような、男のような、複数の声が混じりあったような声だった。
 惜しむように、愛しむように、包み込むようにそれは響いた。
 頭から全身に軽いしびれのような振動が走っていく。それはひとしきりルクレツィアの体の中を通り過ぎていくと、まるで何事もなかったかのように収束していった。
 体から消えていく喪失感に、ふと気付く。
「あ、わかった……」
「なにが、ですか?」
「魔人が魔女の魂を取れない理由」
「はい?」
「お前みたいなやつが多いからだ」
 魔女との契約は得をしない。おそらくそれは、仕事だなんだといろいろなことを言いつけられることに起因していたのだろう。
 だから、普通の魔人は魔女とは契約しない。魔女と契約を望むのは、その普通の中に入らない、“普通でない”魔人たちだ。
 ゆえに、彼らの根本的性格は同じだ。そんな彼らが契約者の魂を取っていかない理由。
「好きだから、取っていかないんだ」
 もちろんお互いの性別による例外はあるだろうが、お互い最も身近にいる異性同士だ。惹かれあう可能性は高い。
 けれど、どんなに想い合っていても、先に死ぬのは寿命の短い魔女の方だ。魔女が死ねば契約により、魔人には魔女の魂が残される。
 魔人が人間と契約をするのは、彼らが魔界において使役する召使いを得るためだ。死者は魔界で酷使される運命にある。
魔界で生まれ育った魔人たちがそれを知らぬはずもない。
けれどそれは、彼らの愛した魔女の魂だ。
 死者が魔界でどのように扱われているかを知っている彼らには、愛した人をそこへ連れて行くことはできなかったのだろう。
 だからストラスも母を連れて行かなかった。最後の最後に想うほど、母のことが好きだったのに。
「ま、いなくなった人たちのことなんてどうでもいいですよ」
「どうでもいいって……」
「とにかく、私はあなたが好きだってことが分かればいいんです。他はどうでもいい」
 そう言いながら立ち上がって、猫のように頬ずりをしてくる。エキドナもやはり、腐っても魔人だ。己の欲が先走っている。
 ルクレツィアは溜め息を吐いて、エキドナの前髪をかきあげ、現れた白い額に口づけた。
「あなたを私の使い魔にする(ジュ ヴ フェー モン エスピリ ファミリエ)」
 エキドナの額に魔術文字が現れ、吸い込まれるかのように消える。これでもう、逃げられない。
「ルクレツィアっ!」
 喜色一面の魔人に今度こそ襲われそうになる。しかしそれも、ノックもせずに入ってきた巨大な蜥蜴の吐いた炎によって停止させられる。祖父だ。
「邪魔するぞ」
 ずかずか入ってきた祖父は背中に木箱を括(くく)りつけている。見覚えのある木箱だった。
「……どちら様ですか?」
 邪魔をされてエキドナが顔をしかめる。
「エスメナ」
「エスメナさんですか。それで、この家に何のご用でしょうか?」
 エキドナのこめかみに青筋が浮いている。すっかり祖父に敵意を抱いているようだ。一方の祖父はというと、エキドナのことはまるきり無視している。
 祖父の目がルクレツィアを捕えて、安堵したかのように細まる。
「お前がうちに忘れたものをわざわざ持ってきたのだ。感謝しろ」
「はいはい、わざわざどうも」
 祖父の背中から外した瞬間、木箱の中身が変な音をたてた。自宅以外には、整理整頓に興味を持たない祖父のことだ。どうせ箱の中には置いてきたものがぐちゃぐちゃに詰められているのだろう。中を見るのが怖い。
「というわけで、疲れたから寝る」
 そう言って、蜥蜴はルクレツィアのベッドに大の字に寝そべった。
「じい様、寝るのはいいけど、寝ぼけて家を燃やさないでね」
「お、お爺様でしたか!」
 途端にエキドナの態度が軟化した。現金なエキドナに、ルクレツィアはくつくつと笑う。
「ルクレツィア! 笑わないで下さい!」
 不機嫌になったエキドナの声を無視するかのように、それは大きな哄笑へと変わり、家の外にまで響いていく。
 父も母も育ての親もいなくて、後悔も昨日したばかりだったが、ルクレツィアは今日確かに満足で幸福だった。
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