魔女に貢ぐ歓喜の歌

06

 ぴん、と何かが張り詰めるような感覚。
 己の頭の中心を貫くようなそれを感じて、エキドナは顔を上げた。
 大きな魔力の流れ――それも、普段なら決してあるはずのない大きさだ。
「……まさか」
 心当たりはある。
 いつかはそうするだろうということもわかっていた。
 それでも信じたくなかったから、エキドナは周辺地域に己の魔力を薄く引き伸ばして魔力の源を探った。
 ルクレツィア、だ。
 村から少し離れた場所に彼女の小さな魔力を感じる。数日前、エキドナが呼び出された場所だ。
 体が頭から冷えていくような心地がした。
 ストラス、を。
 喚(よ)ぶというのか。
 しかし、彼女にはそんな魔力も時間もなかったはずだ。いや、魔術道具で補えば魔法陣の代わりになるし、最近よく出かけていた理由はそれだろう。
 そう思うと、胸に何かが詰まる。苦しい。
 この苦しいのは何なんだろう。胸の中心にずしりと重い石を置かれているようだ。
 人間の感情については魔界で嫌というほど叩き込まれた。
 けれど、自分の感情は知らない。到底、教えられるものではないからだ。魔人の中には人間の感情すら理解できない者もいる。
 長きにわたって人間たちに関わり続けたストラスも、完全に理解しているとは言いがたい。魔人の感覚と人間の感覚は違うからだ。
 人は情を大切にする。
 魔人は己の欲を大切にする。
 ストラスのように、情を大切にする魔人は珍しい。だから、魔人の中では異端視されていた。
 それでも、ストラスが派遣協会を追放にならなかったのは、今までに何十人もの人間の魂を魔界に連れ帰ってきたからだ。派遣協会は多少問題があろうと、優秀な人材は確保しておくべきだと判断したらしい。
 それは正しい。
 それでも。
 外に出て空を見上げる。
 生温(なまぬる)い風が吹きすさぶ中、遠くの空だけが朝焼けのように赤い。
 何かの近づく、予兆。
「それでもストラス、あなたは情など覚えるべきではなかった」
 空の赤いところを睨みつけ、言葉を噛み潰すかのように呟く。
「覚えなければ、ルクレツィアもあんなに執着しなかったでしょうに」
 そうして、エキドナは空を蹴った。




 ルクレツィアは大きな麻袋に詰めた魔術道具を全て草原の中央にぶちまけた。逆さになった袋からは、様々な形状をした魔術道具が転がり出てくる。
 どれも形や材質は違うが、効果は全て同じ。
 即(すなわ)ち、魔力の増加。
 魔力の少ないルクレツィアが魔法陣に頼らず、魔人を喚び出せる方法はそれしかない。
 祖父によると、母は召喚の条件が合う晩に呪文を唱えるだけでストラスを喚び出した。母の魔力がどれだけ強大であったかが如実にわかる話だ。
 この一ヶ月、ほとんどの時間を魔術道具の作成に費やした。その努力を無駄にしないためにも、エキドナに気付かれる前に術を始める必要がある。
 この前使ったものよりも細い木の枝で、地面に直線とギザギザ模様を描いていく。魔術道具と自分を囲むように描かれたそれは、魔術界で進入禁止を表す模様である。この模様で周囲を囲っておけば、その場を守る結界にもなるから、エキドナは線の内側には入って来られない。
 一つ、大きく息を吸って、吐く。
「……よし」
 ルクレツィアは詠唱を始めた。




 エスメナはかく考える。
 魔女たる者は全て同じ性質を有するのか、と。
 先々代の魔女であった彼の妻はそれが原因で死んだ。フアナが今のルクレツィアよりも若いときのことだから、人間の時間ではもう随分と前のことなのだろう。自分にとっては、数年ばかり前のこと、という感覚だ。人間の十倍は長生きする自分たちにとってはその程度の年数になる。
 妻と過ごした時間はさらに短い。
 現在のように、洞穴で睡眠をむさぼる自分を外に引きずり出した彼女の傲慢(ごうまん)な声と表情を覚えている。
 わけがわからないまま引きずり出されて、詳しい意味もわからぬまま主従の契約をした。
 後で詳細を知ってその面倒くささにげんなりしたが、それでも、悪くはない時間だった。妻と、生まれてきた娘と、三人で過ごした。
 それが壊れたのは、ひとえに妻と娘が頑固だったからだ。
 妻は傍若無人な魔人など嫌いだった。
 娘は魔人に傾倒していた。
 妻は娘を諫(いさ)め、娘は母に反発した。
 娘は魔人の召喚を強行し、阻もうとした母親にその魔力を向けた。
 少し意識を向けただけのそれは、か弱い人一人の命を奪うに充分なものだった。
 他の誰も知らない、けれどエスメナは知っている、娘とその使い魔の罪。
 娘は良心の呵責(かしゃく)に耐えかねたのか、喚び出した魔人と共に村を出、それきり死ぬ直前まで帰ってこなかった。
 村に戻ってきたとき、フアナはひどく憔悴していて、重病患者のようにも見えたという。
 噂では、かつて実在した、精神に異常をきたした狂女王のようだったという。エスメナは彼女が死ぬまで一切会っていないから実際はどうだったのか、知らない。
知っているのは、フアナが外で孕んだ子を産んだこと。その直後にフアナは死んだこと。それらを彼女の使い魔の魔人が報告しに来たこと。それだけだ。
 昔から、無理を通そうとすると、どこかに異変が生じるという。自分の妻子はまさにそれだ。お互い、自分の主張を捻じ曲げなかったがために、悪い結果を招いてしまった。
 ルクレツィアはどうなるのだろうか。あの子供も頑固で、通るはずもない無理を通そうと躍起(やっき)になっている。止めたところで徒労に終わるのは、妻子の例ですでにわかっているから、エスメナは止めない。
 それはあの紫の魔人の仕事だ。




「止めなさい、ルクレツィア!」
 頭上から聞きなれた声が降ってきて、ルクレツィアははっと顔を上げた。
 それと同時に、地面に描かれた模様すれすれにエキドナが空から降下してきた。地面から放たれているオレンジ色の光で、エキドナの表情が驚愕に変わったのが見える。
「これは、強制召喚……? ルクレツィア、今すぐ止めるんです!」
 強制召喚とは、本来魔人派遣協会を通して行うはずの召喚を派遣協会を通さず召喚することだ。
「嫌だねっ! 邪魔するには遅すぎだよ、エキドナ! ちゃんと対策だってしてあるんだから!」
「くっ……」
 進入禁止の模様を見て、エキドナが悔しげに歯軋(はぎし)りする。
 押し黙るエキドナとは対照的に、ばらまかれた魔術道具の中心がさらに鮮やかなオレンジの光を放ち始める。
「来たっ!」
「! まずいっ」
 ルクレツィアは喜悦。エキドナは焦燥。
 二人はそれぞれまったく違った表情を浮かべながらオレンジの光に包まれた。
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