魔女に貢ぐ歓喜の歌

05

「だからなんでお前がここにいる!!」
「近所迷惑ですよ、ご主人様」
「うるさいな、質問に答えろ!」
 顔を真っ赤にしてルクレツィアは、昨日と同じように距離を取った。
 なんでいるんだろう。昨日あんなことがあったからもう近くには寄ってこないものと高をくくっていたのに。
 あれ? っていうか、自分はどうやって家に帰ってきたのだろう。確かじい様のところにいたはずなのだけれど。記憶がない。
「ご主人様」
 あれ? あれ? と顎に手をやって考えていると、すぐ間近で声がした。
「ん……わああ!!」
 ルクレツィアが叫んだのも無理はない。
 視線を上げた、すぐそこにエキドナの顔のアップがあったのだから。
「な……なになに!? この近さは一体なんだっていうのよ?!」
「ご主人様」
「だからなにって……」
 ちょっと動けば触れてしまいそうなほど近くにある端正な顔に、ルクレツィアは困惑した。
 できるだけ離れようとしているのだが、そんなに広くはない部屋の中でのこと、ルクレツィアの後頭と背中はすぐに壁にくっついてしまう。
「ちょ……ちょい待ち。待って待ってマジでマジでちょっと近づくなああ!!」
 無情にというか、なんというか、エキドナの顔は段々と近づいてくる。
あ、もう駄目だ、やられた。
 ルクレツィアがあっさり諦めてきつく目を閉じたとき、冷たいんだか、温かいんだがよくわからない感触のものがルクレツィアの額に触れた。
 額、に。
 …………あれ?
「あ、あれ……?」
「どうしました、ご主人様」
 壁にびったりと貼りついたような格好になっているルクレツィアからすでに離れてベッドに腰掛けているエキドナが何事もなかったかのように小首を傾げてくる。呼び方までいつの間にやら元に戻っている。
 ルクレツィアは額を押さえて赤面するばかりだ。
「べ、つにっ」
 口にされると思った、なんて言えるかっ。
「そうですか? 顔が真っ赤になっていますが……ああ、もしかして唇にキスをされるとでも思いましたか?」
 顔を覗き込んでくるエキドナの顔が面白そうに笑っている。
かーっと顔が熱くなるのを感じる。その通りだとは言いたくもないし、思われたくもない。だからそのからかうような視線から逃れるように、ルクレツィアはおもいきり顔を背けた。
 やっぱりこの魔人は昨日と何一つ変わっていなかった。




 ストラスがいなくなったのはおそらく、母と約束した期限が切れたからだ、とルクレツィアは思う。
 姿どころか、声すら覚えていない母はルクレツィアとは違って膨大な魔力を持っていた。契約主が死ねばすぐに魔界に帰ってしまうはずの魔人を、自身が死んでからも留めておくには命令しかないからだ。それも、ある程度魔力を持っていないとできないことだ。村人からの話を総合すれば、母にはそれだけの魔力があったとしてもなんらおかしくはなかった。
 ルクレツィア自身は魔力の少ないことをあまり気にしたことはない。それはおおらかな育ての親や孫放置気味の祖父、魔術師でない者の方が圧倒的に多い一族のいる狭い世界で育ってきたからだ。
 外の世界では魔術の大家、などと言われているが、ヴァンテージ家が魔術師の一族として繁栄していたのはもう随分と前の話だ。確かに母も魔術師としては素晴らしかったが、先祖たちのように何か偉大な功績を残したわけではない。最後に魔女が社会に多大な貢献をしたのは母の祖父だったか、曽祖父だったか、さらにその上かだ。一族の中で時々思い出したように村を出て何かをする魔女がいるからこそ、ヴァンテージ家は格別だと言われる。実際にはそれだけなのだ。
 祖父の洞窟でもくもくと魔術道具を作りながら考える。
 とにかく、次の満月が来るまでもうあまり時間がない。
 ルクレツィアがすることは、この洞窟内に置いてある材料を全て魔術道具に組み立てることだ。家にいるであろう、エキドナのことは完全に無視している。
 砕いた岩塩を、塗料を塗ったばかりの濡れた葉の上にまぶして、眠っている祖父の傍に置く。
 こうしておけば、祖父の体から放たれる熱で早く塗料が乾くのだ。他にも、祖父の洞窟には妙な形状のものが所狭しと並んでいた。
 これらは全て魔術道具である。自然の中にあるものを組み立て、それだけでは弱い個々の力を合わせることで道具に魔力を持たせる。魔術道具の作成に魔力は要らないから、ルクレツィアでも作ることができる。何より、ルクレツィアの足りない魔力を簡単に補うことができる。
 しかし、何故この作業をこんな洞窟の中でやっているかというと、エキドナに邪魔されないためである。
何でそんなに自分に懐くのかはわからないが、エキドナはルクレツィアの行くところ全てについていきたがった。
 ここにまでついてこられると色々と厄介なので、エキドナには家にこもらせてルクレツィアの受けた香水作りを言いつけてある。さすがに他者のテリトリーには入ってこないとは思うが、あの男ならばそんな暗黙のルールなど簡単に破りそうな気がする。
 魔人は人間との境界はたやすく破るが、妖精霊の類に関しては違う。
 それは彼らが魔人と同じく魔術の概念そのものと深く結びついているためだ。同族嫌悪なのか、魔人は彼らに必要以上に関わらない。逆もまた然(しか)りだ。相手の巣穴にのこのこ入り込むような真似は決してしない。もし入れば、中にいる相手の怒りを買うかもしれないからだ。そして彼らの衝突はなるべく避けるように、という暗黙のルールがある。
 だから、エキドナはここに来ない。近くには来ても、入れない。
 入れば問答無用で祖父に黒焦げにされてしまうからである。ちょっとそれも見てみたい気もするが。
 最初はこの場で作業することを疎(うと)ましがっていた祖父も、結局は言うことを聞いて洞窟の隅に丸くなって眠っている。世の中の例に漏れず、彼も孫には甘いのである。
 その代わり、作業は一切(いっさい)、手伝わない。せっせと手を動かすルクレツィアの隣で、ぶうぶういびきをかきながら眠っている祖父のつるつるした皮膚に針を刺したくなってくる。が、そんなことをしたらいくら孫のルクレツィアでも丸焦げになってあの世行きだ。
 一通り塗料を扱う作業を終えると、ルクレツィアは祖父に背を向けて作業を再開した。目のつくところにあったら、本当に刺してしまいそうで怖かったからだ。
 そして気を紛らわそうと、ストラスのことを考える。
 ストラスは、特別だ。
金髪とオレンジ色の目、そして整った顔立ちは見る者を感嘆させ、その声は聞く者に美声の鳥を思わせた。
 魔術も完璧としか言いようがなかった。詠唱も魔術式の組み立て方も魔術道具の作り方でさえ、素晴らしかった。
 おそらくこれほどの魔人は後にも先にもいないだろう、とルクレツィアは思っていた。
 何せ、ストラスは完璧なのだ。
 そんなストラスが当たり前のように傍にいることが何よりも誇らしかった。
 ルクレツィアが育ての親たる彼を誇って何が悪いことがあるだろうか。
ストラスに名前を呼ばれるだけでルクレツィアは嬉しかったし、その大きな手で頭を撫でられることはもっと嬉しかった。
 ルクレツィアが夜寂しがれば同じベッドで眠ったし、ルクレツィアが怪我をすればすぐに魔術で痛みを取り除いた。
ストラスの作るものは何でも美味しかった。
 ストラスが話せば、どんな退屈な話でも楽しかった。
 何もせずとも、ただ隣にいてくれればそれだけでよかった。
 ストラスは、ルクレツィアの“特別”だった。
 だからそれに代わるものなど必要ないし、欲しいとも思わないのだ。
 何一つ。




 エキドナはむっつりとしていた。
 最近、ルクレツィアは出かけてばかりだ。
 ルクレツィアが出かけるところには全てついていったエキドナだが、初日に嫌がられたのと、ルクレツィアに自宅待機を命じられたせいで彼女について外に出ることができない。
 無視することも可能だが、そこまで主の命令を無視すると契約以前の問題になってしまう。
 帰れと言われるかもしれない。
 もしかしたら、魔界に強制返還されるという可能性もある。
 さすがのエキドナも、それだけは避けたかった。
 だってどれだけルクレツィア自身に拒否されようとも、自分の主は彼女以外に考えられないのだから。
「それでも、心配なんですよねぇ」
 ふう、と溜め息を吐く。
 自分がこんなところで大釜の中身を長い棒でかき回している間にも、ルクレツィアはストラス召喚を再度計画していることだろう。
 それは避けたい。
 だが、そのためにはストラスよりも自分のほうが素晴らしいと思わせなければならない。
 一番手っ取り早いのは、自分に惚れさせることだが、それはどうも難しそうだ。
自分の容姿は――外見上だけであるにしても――美形の類に入るはずだし、ルクレツィアだって年頃の女性だ。今までのことを考えれば、この顔で迫られれば意識もするらしいことがわかる。
 しかし、ルクレツィアのストラスに対する感情はそれ以上で、どうやってもそれを越せそうにはない。
 彼女の、ストラスへの感情は人が抱く親への感情と似ている。まあ、ルクレツィアには父も母もいないから、ストラスを本当の親のように慕うのは当然といえば当然なのかもしれない。
それでも、ここまでストラスへの執着が強いと色々と厄介だ。
 ルクレツィアは自分が一番気に入っている魔人と契約をしたがっている。
 それはエキドナだって一緒だ。
 人間なんて欲深いものだ。呼び出された途端に自分の望みを列挙する者もいる。
 けれど、ルクレツィアは違う。
 予想はしていたが、呼び出された途端にあの態度。人間は禁止されると、逆にやってみたくなるというが、魔人にも似たものがある。拒否されれば追ってみたくなるのだ。
「とりあえずはむこうの出方を待ちますか」
 棒の先で植物の根が崩れてとろりと茶色の液体が溢れ出した。




「ルクよ」
 月が再びその身を太らせ始めたころ、いつも寝てばかりの祖父が珍しく話しかけてきた。
「なに?」
 祖父が動かないので、ルクレツィアも顔を上げずに作業に没頭する。術式に必要な魔術道具の数は八割方、出来上がってきていた。
「お前は誰が何を言おうと自分の考えを曲げないのだな」
 ルクレツィアは顔を上げた。祖父の声が真剣そのものだったからだ。
 事実、オレンジ色のサラマンダーは、その花よりも赤い瞳でこちらを食い入るように見ていた。
「たとえそれがどんな結果を引き起こそうとも、後悔はしないのだな」
「そうだけど。なに、急に」
「気にするな、ただの確認だ。お前の祖母も変に頑固だった」
 今日の祖父はどこかおかしい。さっきの質問もそうだし、いつもは寝過ぎと言うほどに寝ているのに今日は何故だか起きている。
「フアナも、な」
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