魔女に貢ぐ歓喜の歌

01

「疲れた……」
 地面に終わりの見えないほど長い魔術文字を書き込みながら、少女は溜め息を吐いた。
 肩に届く癖毛の黒髪と、同じ色の目。たっぷりとある胸の膨らみと反比例するかのような、細くすらりとした手足。目が少し吊り気味なのは愛嬌というものだが、それを差し引いても十分に容姿に恵まれた少女だった。
「あー、マジこれ疲れるわ」
 棒を持つ手も疲労で硬くなっている。棒から手を離し、長く握っていたために固まった手を動かしてほぐす。背筋を伸ばすと、背骨がぱき、と嫌な音をたてて鳴った。目の前には魔術文字をびっしりと書き込まれた巨大な魔法陣が広がっている。その大きさたるや、少女が縦に四人寝転がっても越せそうもないほどだ。しかし、これでもまだ七割の出来なのだ。自分の少ない魔力でも起動できるように術式を組み立てたらこうなってしまった。
「きゅーけーい」
 魔法陣の完成まであと少しなのだけれど疲れたのだからしょうがない。勝手に決めて、少女は地面に寝転んだ。視界に入ってくる空は一面、オレンジに染まっている。
 ――あいつの目の色みたいだ。
 ふと、思う。まるでこの空の色のような目の色を持つ魔人のことを。
 雲は少ないし、このまま行けば夜は晴れるだろう。雨では困る。なにせ、少女の書いている魔法陣は土の上に書いているだけなので、雨が降ると消えてしまうのだ。
「あれ? 族長?」
 寝転ぶ少女に幼い子供の声がかけられる。
「なんだシーニ、村で何かあったか」
 寝癖で頭がくしゃくしゃになっている小さな少年の姿を寝転がったまま視界に映す。寒さからか、鼻をすすり上げるシーニはううん、と首を振り、走って少女のもとへとやってくる。今の時間、こんな場所にいるということは大方、親の手伝いで木の実を摘みにでも行っていたのだろう。
「今日は一日お姿が見えなかったから何してたのかなって」
「見てわかる通り、これを書いてました」
 ふざけた調子で敬語に敬語を返しながら、地面に書かれた大きな魔法陣を指で示す。
「これ何の魔法陣!?」
「魔人召喚の魔法陣」
「魔人!? すごい!」
「ん。ま、後は今夜晴れるかどうか、だな」
「今日、夜は雨降るんだって。うちのばあちゃんが言ってた」
「げっ、マジでか……」
 雨、はまずい。雨でせっかく書いた魔術文字が消える可能性があるからだ。やっぱり布に書いたほうがよかったか。でもあれはインクが滲むしなあ。いや、布でも雨なら結局同じ運命をたどっていたな……。
「シーニ。悪いが、村に帰ったら灯りと食料と雨具を持ってくるように誰かに頼んでくれないか。頼んでくるの忘れた」
「わかった! 言ってくる!」
 大きく鼻をすすって少年は村へと一目散に駆け出した。少女は少年の行動の早さに驚きながらも上半身を起こして大声で注意をする。
「慌てるとこけるぞー!」
 わかってるー! とか返しておきながら少年はすぐに転んだ。彼が明かりを点し始めた家々の中に消えていくまで少女は見守り、それからようやく重い腰を上げた。




 ああ、面倒くさい。
 内心で愚痴りながらシーニの父親が持ってきてくれた灯りの中、魔法陣の最後の部分をやや乱暴に書き上げていく。
 ヴァンテージ家が得意とする魔術分野は様々な薬を作る製薬魔術。だというのに、なぜ少女が今こんなことをしているかといえば、それは彼女がヴァンテージ家の族長であるからに他ならない。
「よし……と」
 最終確認を済ませて魔法陣の上に立つ。今まで魔法陣を書くのに使っていた木の枝を地面に投げ捨て、代わりにそれまで用なしだった魔術専用の杖を手にする。
滑(なめ)らかな木製の杖は伸縮式で、頂点の部分に長い橙色の羽が中に入っている。木製だというのに、それはまるでガラス製品の中に入っているかのごとくはっきりと見えた。
 杖を長く伸ばして左手に持ち、構える。
 息を一つ吸って、一言。
「深き、魔術の夕(たそがれ)の中に住まう鳥の御方に申し上げる」
 さほど大きくはない声。けれど、不安定なその声は、呪文が進むにつれて確かな響きを持っていく。
「曙の瞳、宵の翼(はね)、暁の嘴(くちばし)、人知を超えた知性を持ち、頭上に黄金(きん)の宝冠を頂く貴公を敬い、また、互いに対等な関係を持つことを我は望み、請(こ)い願う」
 頭が痛くなるくらいになって覚えた長ったらしい呪文を唱えながら杖をくるり、と一回しする。この場にある魔力も、魔法陣の上に凝縮され、今にもはじけそうな勢いを持っている。
 気分が昂揚する。
 なんだか嬉しくなって口角をにいっ、と吊り上げる。
「さあ、来い! 私はルクレツィア・ヴァンテージ! 新しい魔女だ!」
 唱え終わると同時に、手に持った杖を魔法陣の上にまっすぐに立てる。魔法陣の上に固体のように凝り固まったまま浮いていた魔力が魔法陣の中に吸い込まれていく。かと思えば、再び地表に現れて弾けた。紫の光が魔法陣から放たれ始める。
 そう、紫。
 むらさき?
 むらさ……き?
「え、ちょ、まっ」
 ルクレツィアの戸惑いなど意に介せず、魔法陣は正常に起動し、彼女の前に一人の魔人を出現させる。
 綺麗に切りそろえられた黒髪、紫の目。どこかの名のある豪商かと疑いたくなるようなセンスのいい衣服。超一流の職人が作ったかのような整った顔がゆっくりと微笑む。
「私を呼んだのは、あなたですか?」
 弦楽器の音にも似た低くて美しい声が薄い唇から出てきたが、ルクレツィアは聞き惚れもせずに即答した。
「すいません呼んでませんチェンジお願いします」
「無理ですよー。どこかの歓楽街じゃないんですから」
 にっこりと笑顔で返された。
 ルクレツィアは顔をしかめて大きく舌打ちをした。召喚の時点でストラスの代表色であるオレンジの光でなく、紫の光であったときに失敗したと気づいてはいたが、さすがに結果を目の当たりにすれば落ち込む。
「始めまして、ご主人様」
 手の甲に口づけられたので、手をさっと引っ込める。男に馴れ馴れしくされるのは慣れていない。魔人のにやにや笑いが癇(かん)に障(さわ)った。
「あ、あたしが呼んだのはストラスなんだけどね、あんたなに間違えて出てきてんの」
「自分が間違えた気はさらさらないと……。たいした自信をお持ちで」
「なに? あたしが悪いっての?」
 ルクレツィアはもう何もかもやる気をなくしてその場にしゃがみこみ、鼻からへっと息を吐いた。
「はい。あなたがご指名のストラスは秋の晴れの満月の夜に召喚しなければなりません」
「それは知ってるよ。で?」
「一方私は秋の曇りの満月の夜に召喚されなければなりません」
「ふーん。……んんん?!」
「お気づきになりましたか?」
「ちょっと待て、まさか……」
「はい。今曇ってますね」
 ばっ、と勢いよく顔を上げて空を見上げると、いつもは星や月の出ている夜空が一面、黒い雲に覆われているのがはっきりとわかった。シーニのばあさんの予測当たってた……。
「曇ってることに気付かなかったなんて、盲点……でしたね」
 やはり笑顔でくすっ、と笑われた後、まるで計ったかのように土砂降りの雨が降り出してきた。
「最っ悪だ!」
 ルクレツィアはシーニの父親に持ってきてもらった防水のマントを身体に巻きつけ、フードを深くかぶると空のバスケットと火の消えたランプを引っ掴んで村へと走り出した。
「最悪? 最高の褒め言葉ですね」
 雨にまったく濡れていない魔人もまた、ルクレツィアの後を追って村へと向かった。
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