シューティング・スタート!

02

「面倒くせぇなあ」
アカテスはお玉で鍋の中身をかき回しながら呟いた。
 夜も更けたファエトン城の一角、無駄に広い食堂で今夜の食事を作っているのはアカテスだった。
 普段ならアカテスが夕飯を作ることなど、滅多にない。
 家に帰れば、母か妹が食事を作っていたし、城にはモナークの母親がいた。自ら食事を作る必要に迫られることがなかったのだ。
 しかし今は、城にモナークとエキナの男二人だけ。女手がまったくない。家事能力が劣ることこの上ない。
 以前から、モナークと徹夜で州の方針や政策を話し合ってきたから、城に泊まることはよくあった。城の厨房で料理を作るのも初めてではない。
 だが、いかんせん、面倒だ。
 こんなことなら、アノアでも連れてくればよかった。狙っているエキナとの仲も進展するかもしれないし、とりあえず何より、自分が料理を作ることにはならなかったはずだ。
 他の男二人はというと、アカテスの背後にあるテーブルについて、夕飯を待ちながら話し合っていた。
「ではやはり、セハナタは農業にも力を入れているのだな?」
「あそこは暴動の影響で放棄した土地がまだ余ってるからな。代わりに、元々の産業だった絹糸の生産が悪くなってる。ラフィルで絹糸生産ができるのはあの辺り一帯だけなのに、もったいない」
「絹糸よりも、食料を重視し始めたんだろう。確かに、絹糸は高価で素晴らしい輸出品だが、セハナタは最近まで暴動で食料に困ったと聞く。まずそちらの回復を優先させるのは間違いではないと思う」
 年頃の男二人の夕食前の会話とは思えぬほどに現実的だ。
 まあこれは、滅多に州の外に出かけられないモナークの勉強会でもある。このくらいはいいだろう。
 だが、食事の前にこんな会話をするのは、正直どうかと思う。自分もよくやっているし、時間がもったいないというのはわかるのだが。
 アカテスは薄い、手のひらに乗るほど小さな皿にスープを少量注いだ。
 野菜を煮て調味料で味を整えただけのスープは透明で、表面に浮いたとうもろこしの粒が美味そうだ。
「アカテス、まだか?」
 ちょうどモナークが席を立って隣にやってきたので、アカテスはその皿を渡してやった。
「正直、お前の料理に期待はしてないけどな」
「じゃあ食うな。俺とエキナで食べる」
「誰も食べないとは言ってないだろう」
 眉をしかめるモナークの後ろで、エキナが苦笑していた。
「味に期待してないってことだよ……?」
 モナークがその端正な顔を思い切りしかめた。
「どうした」
「なんか……苦い」
「苦い?」
 苦く感じるものなんて入ってなかったはずだが。野菜ばかりとはいえ、ありふれた材料だ。
「……ちょっとそれ、吐き出せ!」
 腰を浮かせながら叫んだのはエキナで、アカテスも彼の意図を察して、しゃがみこんでしまったモナークの襟を掴んで立たせた。
 モナークの灰色の頭を空の瓶に押しやりながら、エキナに医者を呼びに行かせる。
 その間も、アカテスの頭を疑問が駆け巡る。
 誰が。
 何故。
 何を。
 それに対する明確であろう答えは一つだけだ。
 ――毒。
 口にしたのは少量のはずだが、モナークの変化は急激だった。額に汗をかき、胃の中のものを吐き出し始める。
 アカテスはそれをただ眺め、モナークの背中を擦(さす)ってやることしかできなかった。


 かつかつ、と馬の蹄が石畳を叩く。
 久しぶりに帰る自宅はなかなかに心地のよいものだったが、新しい事件の匂いを嗅ぎ付けたならば、そこもすぐに離れることになる。彼女にとっては、自宅も一つの中継地に過ぎない。世間的に、色々と気にしなければならないことはあったが、彼女にすれば大したことではなかった。
「戻ってすぐにまた出かけるのはどうかと思うのですが……」
 斜め後ろから男の声がした。同じように馬に跨がり、手綱を持っていない方の手で、鳩尾(みぞおち)を押さえている。
「なんだ、お前が報告したことじゃないか」
「そうですが! ……まさかすぐに出発するなんて思わないに決まっているでしょう!」
「お前はまだ、私のことをわかっていないようだね」
 頬にかかる髪をゆるくかきあげる。指の間からさらりと赤茶の髪の毛がこぼれ落ちた。
「私は面白いものがあるとわかれば、すぐにでも行きたいと思うのよ」
「ええ、それはもう。現在進行形で実感していますとも」
「なら」
 後ろを振り向いてにっこりと微笑んでやる。部下の笑顔がぴしりと固まった。
「つべこべ言わずについてこい」
「…………はい」
 たっぷりと沈黙を取ってから、男は頷いた。
その手が鳩尾を強く押さえていたのは――見ていないことにした。


 アノアがアカテスの執務室に入ると、そこには半ば屍と化した兄の姿があった。
「ちょっ、お兄! どうしたの!?」
「おー、アノア……」
 机に突っ伏していたアカテスは、丸一日ぶりに聞く妹の声に頭を上げた。机の上には書類が小山を作っている。モナークが倒れたため、アカテスにいつもより多くの書類が回ってきたのである。その中にはおそらく普段、彼がモナークに押し付けているものもある。自業自得といわれればそれまでだが、結構きつそうだ。
「知ってはいると思うが、モナークが倒れた」
「うん、もう朝から、どこもその話で持ちきりよ」
 昨夜モナークが倒れ、医者が呼ばれたという噂は早くもファエトン中に広まっていた。
 しかし、常に忙しくしているモナークには、いつ倒れてもおかしくないという認識がある。そのため、ファエトンではついにきたか、程度の認識しかない。
「モナーク、どうしちゃったの? 何かおかしなものでも食べた?」
「まあ、そんなとこだ」
 アカテスは頭をがりがりかきながら大きなあくびをした。近くにあったカップを手に取り、中身がないことがわかると、また机に突っ伏した。寝たからといって、仕事の量が減るわけではないだろうに。
「お前はモナークの見舞いでも行ってこい」
「さっき行ったよ。具合悪そうだったし、長居するのもどうかと思って出てきちゃった。エキナは?」
「まだ寝てるだろ。昨日も天体観測してたんだ、アイツ」
「本っ当、好きね、星。じゃあもう帰るわ」
「ああー、待て待て」
 アノアが振り返ると、アカテスは机に突っ伏したままカップを持ち上げた。
「なんか飲むもの淹れてきて」


 少しの文句をこぼしてアノアが出て行った後、アカテスはむっくりと身を起こした。
「……面倒だなあ」
 とにかく昨夜のことはモナークの体調不良で、しばらく忙しかったために倒れたのだということにしていた。誰が犯人かもわからないこの状況で、毒を盛られたなんて公表したらどうなることか。
 そもそも、本当にモナークが狙われたかどうかもわからないのだ。
 しかし、アノアが来たときは若干焦った。
 普段は鈍いくせに、妙なところで鋭い妹は、今回のことも何かおかしいと思って来たのではないかと思ったのだ。実際は何も考えていないようでなによりだった。
 まさか本当におかしなものを食べたとも言いにくい。こんな平和極まりない田舎で毒物混入なんていう物騒な事実はなるべく隠しておきたい。
 不安や混乱を招く事態は避けたかったし、今回のモナークの容態も大して悪いものではない。時間が経てば、知事の体調不良で済ませられる話だ。
 ファエトンの住人はもとより、アノアに言うことはもっとできなかった。
 事実を知れば、アノアは絶対に犯人を探し出すというに決まっている。
 犯人が誰かわかっていない状況で無闇に動くのは得策ではない。だからといって、黙って大人しくているつもりはないが。
 だが、おそらく犯人の狙いはモナークではない。さらに言えば、これといった明確な目的さえないように思える。
 本当に殺したいなら、もっと毒性の強い、味などではわからないような毒を使うはずだ。
 それに、モナークはファエトンで生まれ育っている上、エキナが来るまでは無防備にも一人暮らしだった。ファエトンの人間でなくとも、簡単に殺せたのだ。
 だから、おそらくモナークではない。
 似た理由で、自分でもない。モナーク同様、いつでも殺せたはずだ。
 すると消去法で、残るのはたった一人。
 最近ファエトンに来たばかりで、素性がはっきりしないが故に、狙われる理由もわからない男。
「エキナが、ねえ……」
 アカテスは無意識に親指の爪をがり、と噛んだ。
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