シューティング・スタート!

01

むにぃ。
目の前でぐっすりと眠る美青年の頬を引っ張ってみた。
 よく伸びる。
 しかし、こんなにつままれているというのに、彼はよく眠る。アノアだったら、つままれた時点で起きているだろう。
「エキナー? ちょっとーぉ……」
 今度は両頬をつまんでみる。下に引っ張ると、よく伸びた。続けて、上下左右にむにむにと引っ張ってみる。
 これにはさすがに気付いたらしく、渋々といった様子で目が薄く開いた。
「んー……アノア?」
「そう、あたし。ちょっと起きて」
 太陽がさんさんと輝く真っ昼間だというのに、自室でカーテンをきっちり閉めて眠っているエキナの頬を左右に引っ張る。薄目を開けた状態で起きるのを待っていたら、また眠ってしまいそうだった。
 起きてほしいのか、赤と青のリボンをつけたハリネズミたちも鼻先でエキナの顔をつついている。
「……起きないとダメ?」
「ダメ。お兄(にい)が呼んでるの」
 それを聞いて、エキナはようやく体を起こした。寝間着で寝ているのかと思いきや、黒の上下という寝るには重い、けれども普段着としては身軽な格好だった。
 頭をがしがし掻き、目をこするその姿は年端のいかぬ子供のようだ。すかさず膝に青いリボンのフタリドが乗る。赤いリボンのイノンドは、エキナの服を引っ張ってじゃれついている。
「起こしてごめんね。眠い?」
「うん……」
 薄闇の中、寝ぼけた瞳がアノアを見上げる。
紫と橙の、二色の瞳が。


 一月前、小州ファエトンの農家の娘にすぎないアノアは、兄と幼なじみの頼み――という名の脅迫――で隣のリール州へと出かけた。州知事・モナークの父が『彗星の欠片』なる物に呪われたため、盗まれたそれを探しに行ったのだ。
 『欠片』を所有していたのはエキナという、顔よし頭よし酒乱気味の天然呪術師で、アノアはしばらく彼と生活を共にしていた。
 色々とあったものの、『欠片』は無事に回収することができた。『欠片』のせいで住居を失ったエキナも、アノアの兄アカテスの誘いで、現在はファエトン州つきの呪術師となって働いている。
 かといって、あのぼんやりしたエキナの性格が環境一つで変わるわけもなく、真面目気質のモナークは彼に振り回され気味である。
 かくいうアノアも同じなのだが、彼に比べればまだマシだろう。一緒に暮らしているせいか、どうも色々と振り回されるらしく、最近のモナークは疲れているように見える。
 アノアはというと、慣れない土地にやってきて不安らしいエキナに、日に一度は訪ねてきてくれと頼まれていた。
 全く知らない仲ではないし、気にもなるので、アノアは毎日昼過ぎになると城へ足を運んでいる。その心情の中には、エキナの整った顔を見たいという下心も僅かながら存在する。感覚的には、エキナを一目見ようと城の前で列を作った人々と何ら変わらない。
 さっきだって、城へやってきたところをにやにや顔の兄に発見されて、居心地の悪い思いをした。おまけにエキナを呼んでくるように頼まれた。体よく使われている気がしないでもない。
「流星群?」
「そう。今夜から来る」
 城の廊下を並んで歩きながら、アノアはエキナの言葉を繰り返した。
「それで昼間から寝てたわけ?」
「ちょっと遅い時間帯に始まるんだ。だから昼間、寝ておかないと」
「どうして今夜からってわかるの?時間まで。それも呪術師の能力?」
 アノアの問いに、エキナは曖昧に微笑んだ。アノアの心の奥底にある不安を掻き立てるような目をしていた。
答は、なかった。


 兄の執務室に向かうエキナと別れ、アノアは中庭へ出た。
 もともとはたくさんの花が植えられていたらしいが、今ではそのほとんどが畑として利用され、隅にある薔薇の茂みがその面影を残している程度だ。
 花が盛りを迎えた今は、白から紫まで、様々な色の薔薇が咲いたり蕾をつけたりしている。
 モナークの母である前知事夫人が手をかけているだけあって、どれも綺麗に咲いている。息子と違って、優しく気のきく彼女が、今は療養中の夫について他州へと出かけてしまっているのが残念だった。前知事も順調に回復しているというし、花が終わるまでに帰ってこられるといいのだが。
 群れ咲く花の中に一つ、アノアの目を引いた薔薇があった。
 濃い紫の、大輪の薔薇。
 エキナの目と、同じ色。
 そうして思い出される、今日のエキナの様子。
 アノアの問いに、やんわりと拒むように微笑んだ、その顔。
 どこか悲しそうにも寂しそうにも見える、その表情。
 アノアはエキナのことをあまり知らない。本人が教えてくれないのだ。
 アノアが知っているのは、少しのことだけだ。
 呪術師であること。
 天然であること。
 酒癖が少々悪いこと。
 イノンドとフタリドという千針ハリネズミを飼っていること。
 あちこちを移動していること。
 出身は国内であるということ。
 それくらいのものだ。
 彼の過去についてはほぼ知らないと言っていい。
 アノアは状況によって話したりもするが、エキナから故郷だの身内だのといった話を聞いたことがない。
 知らない。
 たったそれだけのことだが、ひどく不安になった。
 またすぐ、どこかへ行ってしまうかもしれない。
 そんな不安がアノアの中にわだかまっている。
 雲のような彼にそのまま自由でいてほしいと思う反面、別れるのは悲しいからずっとここにいてほしいと思う自分がいる。
 ただの我が儘だとはわかっているし、エキナが一つ所に留まれない性格だというのも、わかっている。
 今だってファエトンにいるというのに、どこかへ行きたそうな目をしていた。ここ最近、よく見る目だった。
 そんな彼を、寂しいし悲しいからという幼稚な言葉で繋ぎ止めたくはなかった。
 エキナはきっといつか、ファエトンを出ていく。そう思う。
 漠然とした不安は心の中でまたじわりと広がり、手には薔薇の刺が柔らかく触れた。


 落ち着かない。
 ざわざわとした、不安のような波がエキナの心をかき乱していた。
 大好きな星空、その上、流星群だというのにエキナは気もそぞろだった。
 原因は、エキナの感覚に触れる、何かの感情の波。夜中に始まったそれは、今や城の外にいるエキナにもわかるほど大きくなっていた。決して人間には出すことのできないそれが気になって、流星群に集中することができない。
 ついにエキナは寝転がっていた草地から起き上がり、城内へと入っていく。
 ようやく覚えた城の見取り図を思い出しながら廊下を進み、目的の部屋へと辿り着く。
 部屋には鍵がかかっていない。いつでも簡単に様子が確認できるようにしてあるのだ。
 静かにドアを開け、後ろ手に閉める。
 視界の先にあるものは月光を受け、静かに発光していた。
 まるで波が寄せたり引いたりするかのように、淡く明滅を繰り返している。
 かつて空からこの地へと落ちた流星、その核たるものが、窓から見える流星に呼応するかのように光っていた。
 エキナは彫刻の、振り上げられた足の先に手をかざした。
 光に触れた手のひらから頭へ、『欠片』の持つ感情が流れ込んでくる。
「……寂しいのか、やっぱり」
 つるりとした足を一撫でし、『欠片』が落ち着いた後も、エキナはしばらくその場に立ち尽くしていた。
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